G-5YSV44CS49 私の安全保障政策論(2/2)-集団安全保障・単独自主防衛・核武装を視野に入れ、心の準備をしておく-|歩く歴史家 BLOG

私の安全保障政策論(2/2)-集団安全保障・単独自主防衛・核武装を視野に入れ、心の準備をしておく-

歩く歴史家

将来のあらゆる可能性を想定し、今から準備を始める

前稿では、日本の安全保障について当面は日米同盟を維持していくしか方法はないため、それを基軸としつつも今後外部の環境が変化した場合に備えて頭の体操をしておく必要があることを述べた。

今回は少し時間軸を伸ばして、将来ありうるシナリオを想定しつつ、日本がそれにどう対応していくべきかを検討してみたい。

アメリカが日本から撤退するシナリオ

20世紀初頭までのアメリカがそうであったように、これからのアメリカも東アジア、中東、ヨーロッパ、アフリカからは手を引いて、南北アメリカだけに専念するというシナリオがありうる。日本との関係では、極端な場合は日米同盟のアメリカ側からの一方的破棄、もう少しマイルドなパターンとしてはアメリカのフェードアウト(いろいろと理由をつけて日米安保条約を執行しない)という形がありうるが、実際にそうなってから日本の安全保障体制をどうするのかを考え始めたとしても遅い。

現時点から、頭の体操として、アメリカが東アジアから撤退した場合に日本はどうするかということを考えておかなければならない。その際、日本が取り得る選択肢は多くない。

単独自主防衛と核武装

アメリカが東アジアから撤退するとなった場合、力の空白を埋めようと中国とロシアが日本方面への攻勢を強めてくることは確実だ。そのとき一番リアルな選択肢として想定されるのが、日本の単独自主防衛だ。軍事的拡大を続ける中国、核開発を進める北朝鮮、極東においても一定のプレゼンスを示すロシアを相手に回して単独で自主防衛するというシナリオだ。

こうなった場合、平和ボケしていた状況が一変し、すべての日本国民に覚悟が迫られる。明治時代(とくに初期)の日本は実際にこのような状況にあり、明治の元勲たちはいかに日本の独立を守ろうかをひたすら考え続けてきた。結果的にその試みはうまくいったのだが、アメリカが撤退した後は明治期以来はじめて日本が単独で安全を守らなければならなくなる。

単独自主防衛をせざるを得ない状況が突きつけられると、国民への軍事的・財政的負担が増え、国の政治・経済・社会の体制を大きく変更せざるをえなくなるが、それもやむをえないことだ。その可能性を見越して、私は徴兵制が必要であると考えている。この点については別稿で詳しく述べる。

徴兵制に加えて、日本の核武装も選択肢として念頭に入れておくべきだろう。周辺国に中国、ロシア、北朝鮮という核保有国を抱える日本が、実効的に単独自主防衛を行うためには、核武装が現実的な視野に入ってくる。

断っておくが、私は今の時点では核武装をする必要はないと考えている。それどころか危険ですらある。今核武装を行うと、東アジアの緊張関係のエスカレートを加速させることになる上に、そもそも現時点での単独での核武装は国際社会からの経済制裁を課されてしまうため、現実的にとりうる選択肢ではない。

ありうるシナリオとして、アメリカの東アジアからの撤退の議論が始まった時点で、米軍の撤退論とセットにする形で日本の核武装が俎上に載ることになるだろう。撤退と引き替えに、核武装にかかる国際社会からの経済制裁を課されないようアメリカと条件交渉することになるはずだ。交渉がうまくいけば制裁なく核武装に着手でき、失敗すれば通常戦力のみで周辺国と対峙するか、形式的な制裁をかけられた形での自主核武装となるかだ。「形式的な」というのは、米軍撤退は日本にとって不可抗力であり、日本の侵略意思からではなくやむをえない事情による核武装ということで、アメリカは真剣に制裁を課そうとはしてこないだろう(と期待したい)。

いずれにせよ、中国、ロシア、北朝鮮との日本の直接的な緊張が高まることは必死であるが、単独防衛というのはそういうことと腹をくくるしかない。今の日本人に必要なものは、このような事態に向けた心の準備だ。

集団安全保障体制

集団的自衛権と集団安全保障

日本の単独自主防衛に加えて、理論的な可能性として考えられるのは、集団安全保障体制に頼るという方向性だ。

その前に前提として、集団安全保障という概念について、集団的自衛権と対比しつつ明らかにしておきたい。この2つの概念は言葉が似ていて混同されやすいが、しっかり区別する必要がある。

集団的自衛権とは、国連憲章51条に定められた主権国家の権利であり、敵と味方をアプリオリに区別し、味方グループで同盟体制を組み、敵から味方の1国が攻撃された場合その他の同盟国が反撃するという考え方に基づく自衛の手段である。代表例はNATO(北大西洋条約機構)。また、アメリカ側から見た日米同盟もここ含まれる(日本側からはそれを認めるか、認めるとすればどこまで行使してよいかについて議論のあるところだ)。

敵・味方を区別し、それぞれの仲間が攻撃された場合に反撃するという性質から、自分の意思に反して戦争に巻き込まれるリスクが高くなり、一度戦争が起きた場合も連鎖的に拡大していく可能性が高まる。実際にサラエボにおけるオーストリア皇帝の皇太子夫妻暗殺事件を引き金とする第一次世界大戦はこうして拡大していった。

一方、集団安全保障とは、敵と味方をアプリオリに区別せず、その体制の構成国間で紛争を解決しようとする方法だ。仮にある国が攻撃的な態度をとった場合、その国は周囲から「村八分」的な制裁を加えられる。典型的なのが国連だ(実際には一部でしか機能していないが、少なくとも理念的には)。

この利点は敵と味方を区別せず、違反者に対する全員からの制裁という形をとるため、相互監視体制が築かれることとなり結果的に戦争がエスカレートしていく可能性が小さくなることが期待される。他方、デメリットとしては、今の国連を見てもわかるとおり、強大な武力を持つ国が違反した場合、村八分的な制裁が効かないことだ。

国連による集団安全保障

1990年代前半の湾岸戦争後、国連の集団安全保障に積極的に参加することで、その理念を具現化していこうとする政策論があった。その代表例は小沢一郎だ。理想論としては国連の集団安全保障体制論はすばらしいものであり、日本も日本国憲法の精神に則り積極的に関与していくべきと私は考えているが、2003年のアメリカによるイラク侵攻、2022年のロシアによるウクライナ侵略など国連安全保障理事会の常任理事国が独断的な行動をとった際にはあまりにも無力であることが露呈してしまった。

この例ではいまいちピンとこないかもしれないが、イラクとウクライナを日本に置き換えてみてほしい。その場合、国連加盟国が結集して日本を助けに来てくれるだろうか。そう願いたいが、現実には残念ながらそれはありそうもない。現在のウクライナになされているような武器支援や兵站提供にとどまるものと思っておいたほうがよい。

東アジアにおける集団安全保障

国連による集団安全保障体制は世界規模のものだが、その地域的バージョンとして欧州安全保障協力機構(OSCE)や米州機構(OAS)などがある。その東アジア版を創設するという案も理論的にはありうる。

現時点での実現可能性はほぼないが、アメリカが東アジアから撤退する可能性を念頭に、中国、韓国、北朝鮮、ロシアを含む形での東アジア圏における集団安全保障体制を構築するという理論的可能性も考えうる。ただし、これは日本一国で完結する話ではなく、実行しようとすると根本的な国家体制がそれぞれ異なることから、国家理念をすり合わせる必要があり、制度構築のプロセスで大いに紛糾することが予想される。むしろこのような地域的集団安全保障体制は、価値観と国家体制が近いものどうしが作り上げていくものという側面が強い。

理念としては国連の、もしくは次善策として東アジア版の集団安全保障に頼りたいところだが、今の時点では実現可能性は見通せない。実行できるとしても、50年、100年スパンでの話となってくるだろう。

韓国との同時核武装論

そうすると、米軍撤退後の日本がとりうる安全保障政策としては単独自主防衛が最有力となる。米軍が日本から撤退する場合、日本よりも前に韓国から撤退していることが予想されるため、韓国も日本と同じ状況に置かれていることになるだろう。未だに北朝鮮とは休戦状態でしかないことを考えると、韓国の保守派のほうが核武装への切迫感が強いはずだ。

韓国が北朝鮮との対決を続ける(統一を模索しない)ならば、日韓で連動して同時に核武装に向けた体外交渉をすることも考えられる(もしくはすでに内部的に検討されているかもしれない)が、今でも韓国は左右の政権による対外政策の振れ幅が大きいため、日本の立場から、交渉に向けて連携するならば左右の意見が収斂してからでなければ安心して対話ができない。韓国全体が核武装に踏み切ると決心した場合、単独ではアメリカを説得できないため、日本にも話を持ちかけてくるだろう。そのときにどう対応すべきか、状況を見ながら日本も決断することが迫られることとなる。

以上が私の安全保障論だ。当面は日米同盟を維持しつつ、アメリカが撤退したときの対応策も考えておく。そのための心の準備を今からしておく必要があるというのが私論だ。

憲法9条の壁

しかし、ここまではあえて触れなかったが、日本の安全保障政策を国民が議論し、政策を実行していく過程で大きな壁が立ちはだかる。憲法9条だ。日本で安全保障政策を語る際には必ず憲法9条が絡んでき、安全保障政策が9条の解釈問題にすり替えられてしまう。

戦後の日本は、9条の解釈をめぐる「神学論争」を延々と繰り返してき、実質的な安全保障政策について考えてこなかった。これまでは考えなくてもよい幸せな時代だったかもしれないが、今後もそうあり続ける保証はないため、不毛な「神学論争」に終止符を打ち、実質的な安全保障政策について議論すべく、続いては憲法9条の問題について考えていきたい。

プロフィール
歩く歴史家
歩く歴史家
1980年代生まれ。海外在住。読書家、旅行家。歴史家を自認。
記事URLをコピーしました