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私の死刑制度廃止論②-死刑執行を民主化する-

歩く歴史家

私の立場=死刑制度廃止論

日本の死刑制度について考える懇話会(以下、懇話会)が報告書を公表したことを受けて、前稿で私はこの懇話会の戦略では目的を達成することができないだろうことを指摘し、とるべき戦略は「死刑執行の民主化」であるとした。

私自身は死刑制度廃止論の立場をとっているため、おそらく懇話会の委員がとっていると思われる立場と同じだ。論拠も懇話会と基本的には同じであるが、意見を異にする部分もある。はっきりと違うのは、死刑廃止に向けた具体的な戦略である。以下ではこの点を見ていきたい。

死刑制度存置論v.s.廃止論

死刑制度の廃止に向けた具体的な戦略を考える前に、死刑存置論と廃止論が寄って立つ根拠とその妥当性について見ていこう。それにあたっては懇話会の報告書で双方の主張がまとめられているため、その内容を発展させつつ、私の死刑廃止論を展開していきたい。

誤判の可能性

死刑廃止論者によって強調されるのが、誤判を完全に排除することができないという点だ。裁判における事実認定は種々の証拠に基づく推認であり、この性質上、神ならぬ人が行う裁判には誤判のおそれが必然的に伴う。実際、日本には死刑確定者にあらためて無罪が言い渡された事例が5つある(免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件、袴田事件)。

死刑制度は「無辜の処刑」という最悪の事態をもたらす危険性を絶えず持つ。犯人とされた者をひとたび殺害してしまえば取り返しがつかないため、死刑は認められるべきではない。

この廃止派の主張に私が付け加えることはないのだが、一般国民の立場から考えるに、自分が冤罪事件の被害者になるという最悪の事態を想定しておいたほうがよいだろう。「百人の罪人を放免するとも一人の無辜を刑するなかれ」という法の格言があるが、その可能性は限りなく低いとはいえ万一自分に殺人の嫌疑がかけられた場合、自分を救うのはこの格言だ。

犯罪抑止論と代替刑

「基本的法制度に関する世論調査」(2019年、内閣府。調査対象者数1,572人)において大多数を占める「死刑やむなし論」(存置派)のうち、「死刑を廃止すれば、凶悪な犯罪が増える」と答えた人が46.3%の割合でいることに前稿で触れた。死刑制度と犯罪発生に関連があり、死刑制度が存在することによって犯罪が抑え込まれていると考えるのが犯罪抑止論だ。

しかし、死刑に犯罪抑止効果があるという経験的・科学的な根拠はない。死刑制度の存在と犯罪発生は無関係なのだ。「死刑になりたかったから人を殺した」と主張する者(希死念慮に駆られた者)がいることを考えると、むしろ死刑制度が殺人を促進しているとも考えうる。

死刑に犯罪抑止効果がないとすれば、むやみに犯人の生命を奪う刑は正当化されるはずはない。懇話会が提案しているとおり、仮釈放の可能性のない終身刑で代替可能だろう。

さらに、懇話会は指摘していないが、私は仮釈放の可能性のない終身刑を言い渡された者には人道的配慮として自殺の権利を認めるべきだと考える。死ぬまで外の世界に出られない終身刑は死よりも耐え難いと感じる受刑者は一定数出てくるだろう。

人権は普遍的である以上、当然受刑者も有する。終身刑下での生のほうが死よりも苦しいと感じる受刑者に生を強要することは非人道的であるため、最大限苦痛の少ない方法での自殺を認める。私のこの立場を「自殺権付き終身刑」としておく。「犯罪者の人権などどうでもいい」と主張しない限り、死刑廃止論者はこれを否定できないだろう。

応報刑論

世論調査における「死刑やむなし論」のうち、「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」を挙げた人の割合は53.6%である。世論は応報刑論の立場を認めていることとなる。応報刑論とは、害悪には害悪をもって報いるという考え方(目には目を)で、要は報復を支持する立場だ。

懇話会は刑法学において絶対的応報刑論(報復のための報復)を支持するものが少ないこと、相対的応報刑論(犯罪抑止の効果がある範囲で応報を認める)は犯罪抑止の効果がないことから否定しているが、私は被害者の応報感情の問題は簡単に切って捨てることはできないと考えている。この点については後に述べることとする。

被害者感情忖度論

世論調査における存置派のうち、「死刑を廃止すれば、被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」と答えた人の割合は56.6%であるが、この立場を「被害者感情忖度論」と名付けておく。

存置派のうち家族が殺害されたことがあるという人は限りなくゼロに近いだろう。その彼らが、被害者とその遺族に自らを仮託して語っているという意味で被害者感情忖度論と呼んでいるわけだが、これには問題がある。

死刑が宣告されるような事件の被害者はすでに殺害されているため、原理的には被害者本人の気持ちを他者がうかがい知ることはできない。よって、被害者の気持ちがおさまらないと断定することなどできず、根拠のない忖度ということになる。

被害者遺族の気持ちについては、懇話会の報告書によればそれも一様でなく、必ずしも死刑を望むわけではないことを明らかにしている。遺族の中には、死刑執行により損害回復が不可能になったり、事件の真実が不明なままになってしまうことを嘆く方や、責任の主体としての犯人がこの世に残り、犯罪を悔い改めてもらうことに意味があると考える方がいるのだ。

そうであれば、第三者(世論)が被害者家族は死刑を望むはずだと決めつけることは、当事者抜きの独断であり、「被害者家族の気持ちを勝手に代弁しているあなたはいったい何者なのですか」と指摘された場合この立場はまともに反論できないだろう。こうしたわけで、第三者による被害者感情忖度論を死刑存置の根拠にすることはできない。

被害者遺族による報復権

殺人事件の被害者本人の気持ちを知ることはできないというのは、遺族であったとしても当てはまる。しかし、理不尽にも愛する家族を突然殺害された遺族は、悲しみや怒りといった遺族自身の感情をもっており、国民はそれに真摯に向き合わなければならない。

そこで、遺族の大半が犯人に対する応報感情(「犯人が憎く殺し返したい」という感情)を実際に持っていた場合、つまり「死刑を廃止すれば、その家族の気持ちがおさまらない」、「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」とする世論が遺族を正しく代弁していた場合にはどうするのかという問題が残る。

それを知るためには遺族の死刑に関する考えを実証的に明らかにする必要があるが、デリケートな問題であるため、そう簡単に行えるものでもないだろう。

仮に実証的な調査を実施でき、遺族の大多数が報復を望まないという結果が得られた場合は、死刑制度を維持する根拠のうち重大なものが消えることとなる。世論調査における存置派のうち、「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」とする意見は、遺族の意向に反する僭越なものとみなさざるを得なくなるだろう。

しかし、報復を望むとなった場合はやっかいだ。部外者が「報復なんて認められませんよ」と言ってのける権利はない。刑法学者が「刑法学会では応報刑論なんて支持されていませんよ」などと言うのも場違いだ。刑法学会の学説動向と被害者遺族の感情は関係のないことだからだ。

その場合、死刑制度は正当化されるのか。私の考えは「ノー」だ。死刑は、国家が独自の根拠と目的を持って行使する刑罰であり、被害者遺族のもつ感情を満たすために科されるわけではないためだ。

遺族による応報感情を満たすためには、報復権を認めざるを得ないのではないか。国家は、遺族による報復権を付した形での仮釈放なしの終身刑を言い渡すところまで責任をもつ。それ以降は、遺族の範囲や認定要件、手段を厳密に規定した上での報復を認める。報復権は権利なので、遺族はそれを行使しても行使しなくてもよい。これが私の暫定的な結論だ。

死刑執行を民主化する

卵を内側から割る

ここまでは死刑廃止論が依拠する根拠と私の持論を見てきたが、この主張をいくら繰り返したところで国民一般が死刑制度を考えるようにはならないだろう。この種の「専門家による政治家への提言」はこれまでもなされ、結果、現在も死刑制度が「民主的に」維持されているという反省に立てば、死刑廃止論者は代替戦略を採用するしかない。

これまでの死刑廃止論者のミスは、卵を外側から割ろうとしていることだ。卵を外から割れば雛は孵らない。死刑存置派に対していくら外から論理的な説明を尽くしたとしても平行線に終わるだろうし、死刑制度を印象論・感情論で支持する国民の耳にはとどかないだろう。

雛を生きて孵すためには、卵を内側から割らなければならない。存置派の考えを変えるためには、そちらの論拠に立って、それが本当に妥当なのかを再検証してもらう必要がある。懇話会はほんの少し言及する程度だが、死刑を執行する刑務官の精神的負担の問題も提起しており、卵を内側から割るためのきっかけはここにある。

国民自身が死刑を執行する

法哲学者の井上達夫は、『立憲主義という企て』の第5章で、死刑存置論者は自ら死刑を執すべきだと説いている。現行の裁判員制度と同じ発想に立ち、それを死刑執行にも適用するという考え方だ。この井上稿で議論はほぼ出尽くしており、私はここに依拠しているが、多少修正を加えたい。

死刑制度はごく一部の例外を除く国民には直接関係がない。それゆえに、死刑制度の裏側では、刑務官が多大な精神的負担を負いながら死刑を執行している事実があることに無関心でいられ、制度を肯定し続けられる。こうした事態を避けるため、すべての国民を何らかの形で死刑に関与させ、その当事者にすることに私のねらいはある。

死刑制度をいいものだと積極的に評価する人(積極的存置派)にしろ、やむを得ないとする消極的存置派(私が印象論的存置論と呼ぶもの)にしろ、この両者は死刑制度を肯定しているがゆえに、死刑執行を刑務官任せにするのではなく、死刑を自分の手で執行すべきだろう。死刑を正当化しているにもかかわらず、「汚いところは誰か別の者にやらせておけ」とするのは欺瞞だ。

「汚れ仕事」を刑務官に押し付けている限りで死刑制度を肯定するという立場は、真の賛成ではない。他者に合法的殺人を押し付ける権利があると主張する存置派がいるとすれば、なぜその権利があるのか説明する責任がある。

現行の見えないところで行われている/国民が見ないことにしている刑務官による死刑の執行を、すべての国民に開かれたものにする。この「死刑執行の民主化」こそ死刑廃止論者がとるべき戦略だ。

死刑執行の民主化へのプロセスと執行方法

では次に、死刑執行の民主化を達成する具体的なプロセスを見ていこう。案としてはこのようなものが考えられる。

政府は、5年ごとに行われる国勢調査において、すべての国民に対し死刑制度に賛成か反対かの意思表示を求める。そして、実際の死刑の執行が準備される段階で、国が執行人を国民の中からランダムに抽出する。国勢調査において反対と回答した人には執行の拒否権が与えられ、賛成者には与えられない。

なぜ賛成者リストからのみならず、反対者リストからも抽出するのかという点だが、現行の死刑制度は反対派を含む国民全体の民主的意思によって維持されているため、反対者を含む全員が死刑に関与する状況を作り出すためだ。

反対者は当然拒否権を行使するだろうから、実際に執行するのは拒否権のない賛成者のみとなる。抽出された賛成者は、死刑執行前に法務大臣発自分宛の死刑執行命令者を受け取る。執行当日は(私は賛同しない現行の)絞首刑の現場に赴き、自ら死刑執行ボタンを押す。

実際の絞首刑では刑務官の精神的負担を軽減するため、複数用意された執行ボタンを複数の刑務官が同時に押すことで、誰が押したかがわからなくするような装置になっているようだ。しかし、国民による執行の場合は、抽出者に倫理的責任と精神的負担を一手に引き受けさせるべく、単独ボタンに切り替え自らが押したことがわかるようにする。

そして、死刑の執行が完了したら、担当の医師が遺体を検死するのに立会い、死亡証明書に連署する。最後に、事件の加害者・被害者の家族に執行完了の連絡を自ら行う。

以上が執行までの手順だが死刑の執行方法に関しては、現行の絞首刑は残虐であり、より(もしくは全く)苦痛を与えない方法があるにもかかわらず、それを存置しているというのは非人道的である。国民による死刑執行制度を導入することにより、代替手段を考えるきっかけにもなるだろう。例えば、スイスの自殺幇助(実質的な安楽死・尊厳死)において適用されている薬物投与による殺害が考えられる。

国民啓発のために残虐刑を利用するのは非人道的だという批判もありうるため、制度の導入前に代替手段を適用してもよいだろう。

死刑執行の民主化論の社会的インパクト

死刑執行の民主化論は、懇話会のようなインテリ的アプローチよりもはるかに社会的インパクトを持ちうるだろう。存置派のみならず廃止派も国勢調査ごとに態度決定をしなければならないのだから、国民全体が死刑制度について考える機会が強制的に訪れることとなる。

印象論・感情論に基づく存置派は、これにより態度を一変させることになり、死刑制度は廃止に向かっていくだろう。積極的存置派は現在でもそう多くはないと思われるが、印象論的存置派が態度を変えれば、この層が浮き出てくることになる。すると次は彼らが死刑存置の正当性を示す挙証責任を負うことになる。

この制度が社会実装されるのが望ましいが、仮にできなかったとしても、これを提起し制度の賛否を問うだけで社会に大きなを与えることになり、これまで死刑制度についてじっくり考えたことのなかった国民は自分事として真面目に考え始めるだろう。

最後に確認しておこう。死刑制度の問題を提起するべき対象は、政治家や法務官僚、司法当局などのエリートではない。国民だ。民主政国家において死刑制度を維持しているのは国民なのだ。

死刑制度廃止論者が政治家に向けて「死刑制度にはこのような問題があるため、改善を要求します」といくら訴えたところで、事態は動かないだろう。廃止論者は現状を改善したいのであれば、勇気がいるだろうが、国民に対して堂々とこの問いを投げかけるべきだ。

「国民のみなさん、あなたは本当に人を殺したいのですか?」

プロフィール
歩く歴史家
歩く歴史家
1980年代生まれ。海外在住。読書家、旅行家。歴史家を自認。
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