G-5YSV44CS49 私の死刑制度廃止論①-日本の死刑制度について考える懇話会の報告書-|歩く歴史家 BLOG
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私の死刑制度廃止論①-日本の死刑制度について考える懇話会の報告書-

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懇話会の提言内容

2024年11月13日、日本の死刑制度について考える懇話会(座長:井田良中央大学教授)(以下、懇話会と表記)による報告書が公表された。それに先立つ10月には、1966年に静岡県で一家4人が殺害された事件で死刑が確定した袴田巌氏の無罪が確定した。これらをきっかけに、これから死刑制度の存廃について考えていきたい。

その前提として、私自身は死刑制度廃止論に立つことを最初に明らかにしておく。

この懇話会は、刑法学者や元警察庁長官、国会議員ら有志メンバーから構成され、日本の死刑制度のあるべき方向性について提言することを趣旨とする私的グループである。11月13日にこの懇話会は、今年2月から12回にわたって行われた会議の結果を公表した(「日本の死刑制度について考える懇話会」報告書-提言と検討結果の概要-)。

この報告書は、死刑は個人の生命を剥奪する究極の刑罰であり、現行の日本の死刑制度とその運用のあり方は多くの問題を伴っていることから、現状のままに存続させてはならないという基本認識に立つ。それに基づいて、国会及び内閣の下に死刑制度に関する根本的な検討を任務とする公的な会議体を早急に設置することを提言する。加えて、設置された会議体においては、種々の問題に結論を出すまでは、死刑執行を停止する立法をすることの是非、執行当局者において死刑の執行を事実上差し控えることの是非についても検討課題とすべきである、との提言がなされる。

これが報告書の総論であり懇話会の提言の骨子だが、報告書では各論として、被害者遺族への支援の充実化、死刑の犯罪抑止力、死刑に代わる無期拘禁刑、死刑確定者の拘置期間の処遇、絞首刑という死刑執行方法の妥当性、執行実務の情報開示、死刑執行官の心理的・業務上の負担など、死刑制度存置派でも無視しえない問題が提起されている。

懇話会の立場

この報告書を読む前、私は死刑制度廃止を訴える内容なのだろうとの予断を持っていたが、実際に読んでみると、この懇話会は直接的に死刑制度の廃止を訴えているわけではなく、あくまでも死刑制度の廃止を含めた現行制度の改革・改善の必要性を訴えかけるにとどまっていることに気づいた。ただし、死刑制度存置論にも一応の可能性を開いているとはいえ、死刑制度の有用性は説かれておらず(死刑存置論が依拠する論拠には言及されているが有効性は認められていない)、最終的に本懇話会は死刑制度を廃止したいのだろうなという意図が見え隠れする。

死刑廃止論を基礎としつつ両論包含論が展開されており、死刑廃止論に立つ私としては「まずは旗幟鮮明にせよ」と指摘したくなるのだが、懇話会の目的は、問題があまりにも多い死刑制度が、そのまま放置されている現状を打破し事態を改善することにあるため、廃止論を前提とせず存置論の主張もフラットに受け止めようとする姿勢が示されているともみなしうる。もしくは、廃止論ありきで提言を行うと、その目的が存置論者によって妨害される可能性があるためこのような両論包含的な内容になったのかもしれない。

ともあれ、各論で指摘される論点は的確で、立論の仕方も筋が通っており、非常に納得させられる内容だ。社会に向けて果敢に問題提起する懇話会の姿勢に最大限の敬意を表したい。それを前提とした上であえてこう言おう。

懇話会のこの戦略ではうまくいかないだろう。うまくいかないというのは、懇話会は自らの目的を達成することができないという意味においてだ。さらには、懇話会が目指していると思われる死刑制度の廃止も達成できないだろう。

死刑制度をめぐる世論の状況

話を進める前に、死刑制度の存廃をめぐる国民世論の動向を確認しておこう。報告書でも言及されている「基本的法制度に関する世論調査」(2019年、内閣府。調査対象者数1,572人)によれば、「死刑は廃止すべきである」と答えた人の割合が9.0%、「死刑もやむを得ない」と答えた人の割合が80.8%となっている。なお、「わからない・一概に言えない」と答えた人の割合が10.2%となっている。

絶対多数を占める「死刑もやむを得ない」と回答した人(1,270人)のうち、その理由として「死刑を廃止すれば、被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」を挙げた人の割合は56.6%、「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」を挙げた人の割合は53.6%、「凶悪な犯罪を犯す人は生かしておくと、また同じような犯罪を犯す危険がある」が47.4%、「死刑を廃止すれば、凶悪な犯罪が増える」が46.3%を占める。

報告書において、これらの理由には根拠がないことが示されている。それぞれ、被害者遺族は必ずしも死刑を求めるわけではなく、死刑制度とは別に遺族の支援を充実させる必要がある、絶対応報刑論(凶悪な犯罪は命をもって償うべきだとする立場)は刑法学において賛成者はほとんどいない、再犯の危険性は死刑に代わる無期拘禁刑によって排除できる、死刑による犯罪抑止効果は科学的に証明されていないというのが論拠だ。 懇話会のこの指摘は正当だ。つまり、多数を占める死刑存置論は、印象論・感情論にしか基づいていない。この層のことをここでは「印象論的存置派」と名付けておく。死刑の存廃問題を考える上でキャスティングボートを握っているのはこの層だ。

懇話会の戦略上のミス

上で懇話会の戦略ではうまくいかないだろうと指摘した。その理由は、懇話会の報告書の一義的な説得対象が政治家もしくは行政官になっていることにある。一般国民の立場から懇話会の提言を読んだとき(そもそもほぼすべての国民は読まないのだが)、「専門家による政治家に対する提言」としか受け取られないだろう。要は空中戦なのだ。

対象がずれていれば当然、方法もずれる。懇話会は政治家を働きかけの対象としているため、立論方法が刑法学や憲法学に基づいた(論理的かつ説得的だが)お堅いものになっている。

「専門家による政治家への提言」「インテリによるエリートへの提言」という形式をとってしまっていること、ここに懇話会の戦略上のミスがある。これでは大多数の国民に対して訴求力を持たないだろうし、その結果、従来からの死刑存置派v.s.廃止派の議論が平行線をたどり続ける上、印象論的存置派も残り続けることになるだろう。では、どのような代替戦略がありうるのか、次に考えていこう。

世論は変わるのか

報告書は結語において、「一挙に合意を形成することは理想的ではあっても、そう簡単なことではなく、「正面突破」しようとすることがかえって禍根を残すこともありうるであろう」と述べるが、私はそうは考えていない。問いの立て方さえ変えれば、死刑制度存廃問題は一気に片が付くと私は見ている。

上で見た世論調査の結果を見るに、「死刑もやむを得ない」と回答した人で、「将来も死刑を廃止しない」、つまり相対的に強い信念で死刑制度の存続を主張している人は全体の43.9%となり過半数を割る。さらに、「死刑は廃止すべき」と「状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい」という回答(潜在的廃止論)を合わせれば全体の41.2%となる。全体の8割を占める存置論の理由もすでに見たとおり、印象論に基づくものだ。

ここに私は既視感を覚える。かつての鬼畜米英・国体の護持が、敗戦を機に一瞬にして「民主主義」に変わった。この国は空気の流れが変われば一夜にして全体の方向性が変わることは歴史が証明済みであり、死刑存置論もなんとなくの印象論にしか依拠していないため、空気さえ変えれば、強い理由で存置を望む一部の国民を除いて、多くの国民は廃止に傾くだろう。問題はいかにして空気の流れを変えるかだ。

死刑制度廃止までのシナリオ

死刑廃止に至る道筋は主に2つ考えられる。トップダウン型とボトムアップ型だ。

無効なアプローチ

それについて考える前に、効果がなさそうなアプローチを挙げておく。それは「心理的外圧利用戦略」とも呼びうる方法だ。懇話会は、OECD加盟国のうち死刑制度を残すのは米国、韓国、日本のみであり、日本が死刑制度を維持しその執行を継続していることが国際社会における日本の国益を毀損しているのではないかと指摘する。重大な人権問題を放置し続けている日本は、世界の二流国・三流国とみなされても仕方ないというわけだ。私もこの指摘に賛同するが、言説戦略としては無効だろう。

なぜならば、外圧をかけられる当の政策決定者は、それによって自らの立場が危うくなることはないからだ。その意味で、外圧とここでは言っているが厳密には「圧」ではない。

また日本国民にとっても外圧は圧として機能しない。報告書は、外交関係において死刑廃止国との間で、犯罪人引き渡しを含む国際司法共助等に影響が生じていることを問題とする。日本国内で殺人を犯した者が国外に逃亡しそこで発見され、日本側が逃亡先の国に対し犯人の身柄の引き渡しを求めた際に、当該国から死刑に処せされない保証が必要であるという理由で拒否された事例が挙げられている。

この事態は日本の捜査当局にとれば沽券に関わる重大事態であるだろうが、一般国民にとっては(政治家にとっても)不利益にならない。それどころかむしろ、殺人犯が国外に逃亡し、永久に日本領土内に入国できないということになるため、これは一般国民にとり望ましい事態だろう。このようなわけで、心理的外圧利用型アプローチは死刑廃止戦略として無効どころか、存置論を加速することとなる。

トップダウン型

死刑廃止に向けた道筋としてまず考えられるのがトップダウン型だ。印象論的存置論という多数派世論を振り切ってでも死刑の廃止を訴える総理大臣もしくは法務大臣が現れ、目的達成に向けて押し切っていくというパターンだ。外国の事例でいえば、フランスのミッテラン政権下でのロベール・バダンテール法務大臣がそれに当たる。

このシナリオは、懇話会にとっても私にとってもその他の死刑廃止論者にとっても望ましく、国として誇ることができるものだろう。しかし、現実には期待できそうにない。この問題に取り組み続けている立派な政治家もおり、懇話会のメンバーに入っていることも事実であり、彼らに敬意を表したいのだが、いかんせんあまりにも少数派だ。いい意味で私の予想が外れることを願いたいが、日本にこのような勇気とリーダーシップのあるトップが出てくることはなさそうだ。少なくともそう前提した上で発想したほうがよい。

そもそもなぜ政治家が死刑廃止について積極的に触れたがらないかというと、死刑の存廃を議論しても得票に結びつかないからだ。いや、それどころか、印象論的存置論が世論の多数を占める日本の現状では、票を失うリスクしかない。国会の議席を死守することが至上命題の政治家にとって、わざわざこのリスクを取りにいくインセンティブは働かない。こうして、内心では死刑に反対していたとしても言及しない方が得という構図になっているわけだが、その中で政治家の責任倫理に期待するのには限界がある。

この構図を変えるには、世論を変え、政治家が死刑廃止を主張しなければ落選するとなる状況を作る必要がある。国会議員も世間の空気が変われば、一瞬にして態度を豹変させるだろう。そのためには、キャスティングボートを握る印象論的存置派の国民をどう説得するかが鍵になる。

ボトムアップ型

次に、国民が死刑制度の改廃を主導するという意味でのボトムアップ型が想定できる。その理想型は、国民が自ずと死刑制度の非倫理性に目覚め、自発的に世論を形成し、国会議員に制度の廃止を訴えかけるというものだ。しかし、これはあくまでも理想論で、現に存置派が多数を占める現状ではありそうもない空想シナリオだ。

そうすると残るは国民世論に働きかけるアプローチしかない。これが成功しうるためには、印象論的存置派をはじめとする国民が死刑制度を自分事として認識できるかが鍵となるが、それに向けたパターンは2つ考えうる。

一つ目のパターンとして、最悪のシナリオを挙げておきたい。それは、今後誤判・冤罪が多発し、一般国民が冤罪の被害者になるかもしれないという恐れを現実ものもとして抱くような事態に陥るというものだ。「民主主義の逆行」シナリオとも呼びうる事態で、このときにはボトムアップ型の死刑廃止論が国民の重大関心事になるだろう。しかし、これは最悪の事態であり避けなければならない。日本がこのような国家になるとは考えにくい(楽観論でないことを願おう)が、理論的な可能性としては考えうる。

二つ目のパターンは、「死刑執行の民主化」だ。詳しくは次稿で見ていきたいが、この方策が世論を喚起し、印象論的存置派に死刑を自分事として認識してもらう現実的な方法だと私は考えている。懇話会は、政治家や行政官に対してよりも、印象論的存置派に対してこの方向で訴えるほうがはるかに効果的だろう。政治家はこれを訴えかけるインセンティブを持たないため、火付け役として最適なのは懇話会メンバーのような有識者だ。

プロフィール
歩く歴史家
歩く歴史家
1980年代生まれ。海外在住。読書家、旅行家。歴史家を自認。
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