「ネクタイを締めた剰余価値」の生存戦略
山崎元の辛辣な表現「ネクタイを締めた剰余価値」
経済評論家の山崎元氏が亡くなる直前に行った堀江貴文氏との対談動画をYoutubeで観た。その中で入社式に出席する新入社員についておもしろいことを語っていた。山崎氏は彼らの画一的な服装と佇まいを嘲笑しつつ、親の期待に沿って大企業に就職したものの、何の工夫もしない取り替え可能な労働者だとし、「剰余価値がネクタイを締めて歩いているようなもの」と辛辣に揶揄していた。彼らこそが経済成長の養分になるとのことだ。
剰余価値とはカール・マルクスの『資本論』に出てくる重要概念で、一言で言ってしまえば「資本家の取り分となる利益の源泉」のことだ。「ネクタイを締めた剰余価値」とは現代風に言えば、組織に雇われ1日8時間(あるいはそれ以上)を上司の管理下で働き、本来生み出した価値より低い報酬しか与えられない(=搾取されている)人、いわば「普通の賃労働者」のことだ。自分の取り分以上に資本家のために働かされている人と考えればいいだろう。
そして山崎氏がたどり着いた結論は、「経済は、主に、リスクを嫌う人が安く働くことで、資本の形でリスクを取っている人に利潤を提供する事で回っている」というものだ。マルクスの著作を読んだことがある人にはおなじみの結論(というよりマルクスの前提)だ。
資本主義経済を象徴する金融市場の中で生きてきた山崎氏が最晩年にマルクスを持ち出すのは奇異なように思えるが、ある意味で必然なのかもしれない。
解釈と表現の修正
マルクスが考え、山崎氏が指摘しているとおり、剰余価値の源泉たる労働者は「搾取されている」と一般的に認識される。しかし、「搾取」という表現はネガティブであり、労働者に対する侮蔑的な含意を持つ。
このように言ったところで実態は変わらないし、なんの気休めにもならないのだが、「搾取」と言われているものをより中立的に表現すれば「利益の傾斜配分」となるだろう。労働者は利益の傾斜配分の中で劣位に置かれる(が、分配の優先順位は高い)。労働者への賃金、国家への税金を含む諸々の支払いを行ったあとに残る分が資本家の取り分となるため、資本家は分配順位が低いが、傾斜配分の中では(企業の利益が出ていれば)優位に置かれる。
リスクを好む人は人類史上ずっと存在し続けてきた
マルクスと山崎は、資本制生産様式(一般にいわれる資本主義)に限定して話をしているが、「リスクを嫌う人がリスクを取っている人に利潤を提供する」という構造は、狩猟採集社会、農耕社会、牧畜社会でも共通しているだろう。配分割合に差はあり、相対的にその差が小さければ「共産制」のように見え、極大になれば「ネオリベ社会」に見えるということだろう。
社会経済制度が、いわゆる「資本主義」(用語の定義についてはこちら)に立脚していようと他の形態であろうと、社会経済はこのような構造で回ってきたのだろう。今後もリスクを嫌う労働者とリスクを果敢に取りに行く者が一定割合で存在し続けるという構造は変わりそうにない。
さらに、遺伝人類学的なテーマとなるが、私は個々人のリスク選好度は遺伝的にかなりの程度決まっていると考えている。ある人間集団の中でリスクを犯すのが怖い=安定性を求める人が圧倒的に多数を占め、リスクを厭わない(どころかそのスリルがたまらない)という人がごく少数いる、という状況が人類が始まって以来今日まで続いてきたのだろう。
その比率は人間集団により異なるのかもしれないし、その時々の社会の状況に影響を受けるはずだ。その中で、リスクを犯すものが社会に変化(イノベーション)を起こし、その裏側で、リスクを犯したために失墜、場合によっては文字どおり死亡した人もいれば、安定を求めるがゆえに平凡な取り分しか得られない人がいる。
このような遺伝人類学的な特性があり今後も変わらないだろうと仮定して、では、その中でマジョリティたる「ネクタイを締めた剰余価値」はどのような生存戦略をとればいいのだろうか。山崎氏のコラムをベースにしつつ、私なりのアレンジを加えながら考えていきたい。
普通の労働者の戦略
ステップ0 現状から脱したいのかを自問する
以上のような状況を理解した上で、まず考えるべきことは、今のままでいいのか、それを変えたいのかを自分で知ることだろう。利益の傾斜配分上、劣位に置かれるが安定しているというのは、見方によっては「搾取」されているとも考えられるが、本人が安心感を得られるのであれば他者が介入するのは僭越だ。
問題となるのは、日本社会がダウントレンドに入っている(ように見える)ことで、「現状維持は後退」という状況下で、現状に満足していない人だ。その人は何らかのアクションを起こす必要がある。そう義務付けられているとまで言っていいだろう。
ステップ1 自分のパーソナリティを見極める
そもそも自分のパーソナリティが組織勤めに向いているのかを判断しなければならない。その際に参考になるのがこちら(パーソナリティと人生設計①)だ。
リスクを取ることを好み、活動意欲が旺盛な人は賃労働者として9-17時で働くことには向いていないだろう。そういう人は積極果敢に自分のやりたいことに注力するのがいいし、人生の幸福度は上がるはずだ。
しかし、世の中の大半の人はリスクよりも安定を好むだろう。その場合にもやはりパーソナリティと自分の特技が重要になってくる。
ステップ2 自分の比較優位分野に資源を全投入する
賃金労働者の最大の弱点は、取り替え可能な点だ。これを緩和するためには、余人をもって替え難い存在になるように努力しなければならないわけだが、その場合問題になるのはどれぐらいの集団でか、だ。
なにも人類レベルで取り換え可能な存在になることを目指す必要はない(イーロン・マスクや大谷翔平クラスになる必要はないし、無理だ)。より大きな集団で優位な能力を持っていれば取り換え可能性は低くなっていくわけだが、大半の人はそんな能力は持ち合わせていない。まず目指すべきは、5~10人ぐらいの人間集団で優位性を発揮することだろう。大組織でも最小単位(グループや班)はそれぐらいで事業を進めていくため、まずはその規模で自分の優位性が発揮できる能力に磨きをかけることが必要になる。
比較優位を探すためには自己のパーソナリティを知る必要がある。社交的で人脈を築くのがうまい、内向的だが特定の分野を突き詰めるのが得意だ、人見知りだが大多数の人とは別の視点で物事を見ている、無駄を徹底的に省くのが得意だなど無数にありえるが、それぞれの優位な分野を発見し、そこに自分の持てる資源を全力投入するのがよいだろう。
日本社会ではこちらのとおり、生産年齢人口が減少しており、さらに労働市場に新規参入する若者の数は激減しているため、「取り換え可能性」という意味では労働者に有利な追い風(経営者にとっては強烈な逆風)が吹いている。
その中で得意分野の能力を磨き、より大きな集団から認知されるようになると、組織側への交渉力が高まったり、副業へと幅が広がっていく可能性が出てくる。
ステップ3 資本家になる
山崎氏はマルクスの『資本論』から労働者が搾取から逃れる方法を考えているわけだが、もう一つの「資本論」の主張を逆手に取ったような結論を出している。それは2013年に刊行されたトマ・ピケティの『21世紀の資本』だ。ピケティはそこで資本収益率(r)が経済成長率(g)よりも高いことを示したのだが、そうであれば資本側に回ることが有利となる。
ピケティはその状況を改善するための方策を考えているわけだが、世の中の人びとには「資本家にならなければならない」という認識を植え付けたという意味で皮肉な状況となっている。「ピケティのパラドックス」とも言える状況だ。
ともあれ、山崎氏が指摘するとおり、資本家になる、労働者兼資本家になる、ストック・オプションのある会社で働くなどがありうる。もっとも手軽にできるのが毎月の収入を積立投資に回すことだろう。そのための制度が2018年から始まり、今年からバージョンアップしたNISAだ。
理論的にはこちらの路線を強化していくことで、つまり労働が全員資本家を兼ねることで貧困層の底上げは可能とも考えられる。(その場合でも格差は縮まらない。)
グローバル化した世界は厳しい
以上の考え方がなにかの参考になればいいと思うが、この実践は多くの人にとってかなり酷だろう。(私も日中、労働者として働き、ブログ記事を書いているのだが、かなりハードだ)。それができないがゆえに「ネクタイを締めた剰余価値」にとどまっているとも言いうる。
残酷な現実ではあるが、今の時代は努力なくして成功できない。だが、努力したからといって成功するわけではない。自分のパーソナリティと社会情勢に合った方向で努力しなければならない。
現在の日本のダウントレンドを考慮すると、努力なしでは成功どころか「普通の生活」も保障されないだろう。戦後の高度経済成長期からバブルの崩壊までの期間は、凡庸な人でも上昇気流に乗れたため、歴史上特殊で「幸せな時代」だったと言える。1980~90年代から世界がグローバル化し知識化していく中で、かつての先進国社会の中産階級が立脚していた社会経済的基盤が掘り崩されていった。現代世界は「ネクタイを締めた剰余価値」にとっては厳しい時代だ。