【書評】橘玲・安藤寿康『運は遺伝する』
遺伝を前提に発想しよう
「ヒトの行動特性はすべて遺伝的である」という命題を耳にして、人はどう受け取るだろうか。身長やスポーツの能力、遺伝性疾患などの特性であれば大きな反発はないだろうが、知能が遺伝に左右されると聞くと心理的に受け入れ難い人が現れてくるだろう。
行動遺伝学とは、その名のとおり、人間の行動に対して遺伝と環境がどれほど影響を及ぼしているのかを解明しようとする学問分野である。その行動遺伝学は上記の命題を支持する頑強な学術的証拠を積み重ねており、もはやそれを否定しがたい域に達している。
しかし、そのような事実は学校教員など教育に携わる人であれば意識的/無意識的に知っていることだろう。公言してしまうと社会的に問題となるため口に出さないだけで、行動遺伝学の知見は彼らにとりすっと腑に落ちるのではないだろうか。
この知見によって不利益を被る産業も存在する。思いつくものとしては、自己啓発や会員制オンラインサロンなどでノウハウを提供する産業だ。遺伝的にそれぞれが提唱するノウハウの習得可能性は、個人間でばらつきがあるが、これらの産業はみんなに習得できてもらわないと困るのだ。彼らにとっては、行動遺伝学は認知的不協和を起こす鬱陶しい学問だろう。
橘玲・安藤寿康『運は遺伝する』のテーマは、対談本ということで非常に多岐にわたる。ざっと列挙するだけでも、行動遺伝学の概念や研究手法の解説、ヒトゲノム解析テクノロジー「GWAS」、知能の遺伝、発達心理学の「愛着理論」批判、遺伝と環境の相互作用、子育て、パーソナリティ、遺伝的適正の発見方法、遺伝子と人類の来歴などであり、通常の単著とは違ってある説を論証するという本ではない。あくまでも対談本という性質上、あらゆることがテーマになっている。
その中で最初に確認しておく必要があるのが、安藤が峻別する「自然主義的誤謬」と「自然主義的逆誤謬」である。自然主義的誤謬は、「遺伝的によくない形質をもっている人間は差別していい、抹殺してもいい」というかつての優生学eugenicsに立脚する主張であり、ナチス・ドイツやスウェーデンなどの断種法、日本の優生保護法に繋がった。安藤はまずこれを否定する(私を含め、もはやこれを正当化する人はいないだろう)。
他方で、自然主義的逆誤謬とは、「遺伝だと言うと差別になるから、遺伝ではないことにする」というロジックだ。安藤は同様にこちらも誤りだとし、「遺伝の影響を認めたうえで、私達がどのような社会をつくっていくかを考えなければなりません」と主張する(p.49)。
かつての反省から「羹に懲りて膾を吹く」という状態になっているのが学術界、ひいては一般社会の現状で、安藤のいう「自然主義的逆誤謬」のような認知的誤りを犯してしまうのは心情的に理解できる。倫理的にそちらに与してしまうのも故なきことではない。
しかし、橘が指摘するとおり、自然主義的逆誤謬の認知的前提でものを発想することにより、現実に犠牲者がたくさん生み出され続けているのも事実であり、それを放置するのは欺瞞である。もはや行動遺伝学の知見は否定しようがない。教育や社会に関する制度設計や政策、自分のキャリア形成・ライフプラン設計、子育てなどを考える場合に、行動遺伝学の知見を前提に発想する必要がある。
ただし、行動遺伝学を含む遺伝関連学問が万能で、すべてを説明できるということは決してない。説明できる事象もあればできない事象もあるというのは、すべての学問分野に共通する。(例えば、第一次世界大戦がなぜ起きたかは、遺伝では説明できない)。
作家・橘と研究者・安藤との掛け合いの妙味
本書は、行動遺伝学の泰斗・安藤寿康慶応大学名誉教授と作家の橘玲の対談本である。専門家であり研究者である安藤が、橘の質問や自説に対して回答・解説・応答するというのが基本スタイルになっている。この両者の掛け合いが非常に面白い。
行動遺伝学を語る上でまず、人間行動を説明する2つの極を示しておく。一方の極は「遺伝決定論」で、こちらは極端に言うと、「人間の行動は遺伝的要因ですべて説明可能である」とする。もう一方の極に「環境決定論」があり、これによれば「人間はブランク・スレート(空白の石板)として生まれ、環境によってどのようにでも変わる」とされる。
行動遺伝学はそのどちらにも与しない。その大原則は「人間は遺伝と環境の相互作用によってつくられる」というものである。そしてあらゆる形質(知能、パーソナリティ、運動能力など)に対する、遺伝と環境(共有環境、非共有環境)が寄与する率を算出する。
当然、安藤も橘も両極端には位置しないのだが、安藤は研究を始める前は「環境決定論」的な予断を持っていたが、研究を始めると現実はそうではなく遺伝の影響を認めざるを得なくなったということだ。
私には安藤の発言の節々にこの「名残」を感じた。「環境決定論の美しい物語が世界を支配していたらいいのにな。しかし、現実はそうではないのだ」というふうに理想と現実でなんとか心理的折り合いをつけようと格闘しているように見えた。そこは誠実な研究者だ。堅実かつ禁欲的で、データに裏付けられたことについてしか断定的なことは言わない。頑強なデータをなかったものとして扱ったり、「美しい物語」にしがみついたりしない。事実を直視した上で対応策を考えようとしている。
一方、橘は科学者ではなく作家であるため、いかに独創的でおもしろい発想をするかというインセンティブを持つ。自由に発想を膨らますことができ、未知・未実証のことについても言及できる。もちろん、科学的成果を正確に理解した上で忠実にそれに依拠しており、両決定論は退けている。それを踏まえた上で、私の印象としては、橘が遺伝決定論もしくは「SF的世界観」の方に引っ張られようとするのに対し、安藤はそれを環境決定論もしくは「科学」の方に引き戻そうと努めているように見受けられた。両者の綱引きが本書の面白いポイントだ。
安藤は対談の締めくくりにおいて「ちょっと偽悪的な芸風で世間を騒がせている橘さんの行間に感じた「愛」を再確認することができました」と述べているが(p.272)、私も同種の印象を受けた。ただし、「愛」というよりもリバタリアン的「社会正義」というのが私の受け取り方だ。
こちらの記事で紹介したが、社会正義を語る傾向は2000年代の橘の作品には見られず、近年になり前景に現れてきたように感じる。若いときに正義感に溢れていた人が、年齢を重ねるとともに個人的世界に「退却」するいくというのが多くありそうなパターンだが、橘はその逆になっているのが興味深い。
今後の問題群
冒頭では「ヒトの行動特性はすべて遺伝的である」という行動遺伝学の命題を前提にしようという趣旨のことを述べた。そのための知見は行動遺伝学によりもう充分すぎるほど提供されていると私は見ている。
「優生学」という負のレッテルを取っ払い、安藤の主張にきちんと耳を傾けてみると、穏健であり社会的に受け入れ可能だということがわかる。私の主観では、これに反対する人は冒頭に述べた産業の従事者か隣接分野の心理学者、教育政策決定者など特殊業界の人たちであり、多くの一般人には受け入れられるのではないだろうか。
安藤のこれまでの研究活動が、上記の命題を学会・社会に認知させるための試みであったとするなら、今後は次のような問題に応答すべき段階に本格的に入っていくだろう。
1 どうすれば自分の遺伝的特性がわかるのか。
2 その遺伝的特性は、ディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)につながるのか。特性が労働市場で売れそうにないものしかない場合、どうすればいいのか。
3 社会的に不利な遺伝特性(例えば、知能が低い、攻撃性が高いなど)を持って生まれた場合、その人は社会の中でどう振る舞えばいいのか。逆に社会はその人をどう受け入れればよいのか。
4 「遺伝ガチャ」を事後的に補正するための社会的再分配は正当化されるのか。
5 親の立場から、どのように子どもの特性を見抜いて、それを基にどのような環境と教育を提供するのが子どもの人生のためになるのか。
安藤は一般論として、パーソナリティが15歳から20歳くらいで安定してくるという研究結果を受け、「思春期後半で安定してきた形質(パーソナリティ)を手がかりに、自分の特性を活かせる環境を探すべきだと思います。環境に無理矢理自分を合わせようとするのではなく、特性に合った環境を探して、それに応じた知識を学習する。あるいは自分の遺伝的な素質に合うような環境を自分から創り出す。そうすることで、人生における成功確率はグッと高くなるはず」(p.179)と述べる。
しかし、高校1年生から大学2年生が自分の特性を活かせる環境をすぐに見つけ出すのは難しいし、時間を要する。現時点では、自分の「起伏」(p.217)を手がかりに、とにかくいろいろ経験したほうがいいということに留まるだろう。
そこで待たれるのが、テクノロジー(GWAS:ゲノムワイド関連解析)の進歩ということになる。安藤は、ポリジェニックスコアから適正に応じたニッチを探し出すシステムを提案している(p.267-269)。ただ、ある程度のデータ量が集まるまでは、形質として現れている特性を見るしかない。つまり、今就活生や転職活動者が行っていることと同じだ。(問題1、2)
3については、橘により監視社会と予防拘禁の事例が紹介されている(p.258-261)。
4については、リバタリアンたる橘は否定的だが、安藤はジョン・ロールズの正義論に従って肯定しているともとれる発言を行っている(p.226)。両者ともにもう少し敷衍してほしかったところだ。
5に関して、安藤は習い事を子どもに経験させて才能を発現させるという手法には懐疑的で、むしろ目の前にあることのなかで一つでも夢中になれることを深く掘っていくほうが才能に近づきやすくなると提唱する(p.217-219)
行動遺伝学の研究成果は頑強なデータが積み上がっているのに対して、これらの問いに対する答えはまだ「ひらめき」程度でしかない。まだ誰にもわからないのだ。私を含め我々の社会は、今後これらの問題に対する回答を探求しなければならない。
【付記】 「遺伝率」はheritabilityの行動遺伝学における訳語と思われるが、この訳語が誤解を生む原因となっている。通常、遺伝率と聞くと、読者は「親世代のある形質が子世代に遺伝する確率ないしは割合」と考えるだろう。行動遺伝学でいう遺伝率の意味内容を考えた場合、「遺伝寄与率」と言ったほうが正確で、誤解が減るように思われる。