日本は島国ではない。山国である。
日本の閉鎖性
難民や移民の受け入れに対する消極性、日本企業の外国人労働者への身分差別など、グローバル化が進展するにつれて日本の閉鎖性が指摘されている。それが批判される場合には、日本の「島国根性」に原因があるとされる。海に囲まれて大陸から隔てられているから日本人は閉鎖的になったのだというふうに。
しかし、本当にそうだろうか。
まず、日本人が世界各国の人々に比べて閉鎖的かについては留保が必要だ。どんな先進国でもアフリカの国々でも閉鎖性と開放性を持つ。都市から離れた農村部に行けば人々の閉鎖性が強く、ローカルな共同体の結束力は強い。他方で、都市化と都市人口の増加に伴って見知らぬ人との接触機会が多くなれば、閉鎖性は和らいでいくというのは世界の普遍的な現象だろう。
こうした一般的な傾向はあるにせよ、私の主観では日本人が閉鎖的であるという指摘はかなりの程度当たっている。新型コロナが流行した当初、日本には県外ナンバーの車を見るだけでアレルギー反応を起こす人がいたという。しかし、その原因を「島国根性」に見るのは間違っている。
日本は山国である
「島国根性」と日本の閉鎖性を指摘するのは、平面地図のみを眺めていることからくる誤謬だ。島国は世界にいくつか存在するが(代表例はイギリス)、彼らが閉鎖的ということはない。イギリスを例にとれば、19世紀には大英帝国を築いた国である。閉鎖的どころか開放的であり、現在も旧植民地からの人々を引き付けている。
このイギリスの事例を見ればわかるとおり、海は人間を隔てる遮蔽物ではない。むしろ人や文化を運びつなげる媒介物だ。実際に大航海時代以降のグローバル化を促進してきたのは、海である。現在でも貨物輸送量は海運が圧倒的に多く、鉄道・航空機による人の輸送が始まる前は船が人を運んできた。日本も中国や朝鮮半島、オランダとも海の交易を行ってきた。
では、人と人を切り離す遮蔽物は何か。それは山である。日本の国土の7割が山地と丘陵地で占められており(可住地面積は3割)、山脈が日本列島を貫いている。日本人の心性が閉鎖的であるとするならば、このとおり日本が「山国」であるためである。その意味で、日本の本質を島国と見るのは誤りである。さらには島国だから閉鎖的であるとする「島国根性」論も誤りである。日本の本質は「山国」であることにある。
なお、鉄道による陸上移動技術は19世紀、航空機による空の移動技術は20世紀に入ってから実用化されたものであり、人の心性を作り上げるほどの時間が経過していない。
私自身は外国人にも日本の門戸を開き、寛容な態度で彼らを受け入れることが望ましいと考えており、日本人も積極的に外国に出て行くことを推奨している。しかし、上記のような地形的制約があるため日本人の閉鎖性を批判的に見る態度はとっていない。閉鎖的になったとしても仕方ないのだ。
エチオピアや南米の山岳民族のように山に暮らす人は、人の移動や物流の制約が大きいため、地図上での距離は近いにもかかわらずまったく異なる言語的・文化的な層を作り出している。
現在の日本でも山を車で超えれば、1時間ほどしか移動していないにもかかわらず、方言や文化、人々のアイデンティティが異なることがある。他方で都市はどこも似ている。
イギリスとの比較
国際政治学者の高坂正堯は、1970年に同じ「島国」であるイギリスを念頭に置きつつ『海洋国家日本の構想』を書いた。日本は国際政治の文脈でイギリスとの比較で語られることがあるが、「島国」という切り口で両国を比較するのは適切でないように思われる。
地図上では海に囲まれているため、両国は条件が似ているように見えるが内実は異なる。イングランドは全体的に低地であり、スコットランド北部やウェール北部(国の辺境)に低い山があるくらいで、国内の可住地間の人の移動は比較的容易である。つまり、山の有無で日本と区別される。
山国根性を基礎とした海洋国家
日本のユニークさがあるとすれば、地理が山と海に条件付けられており、陸が少ないということだろう。発展している多くの国は、陸地と海に恵まれている。その意味で、日本が参考にできるモデル国はないのだが、海がない内陸国ほど不利な条件下にはない。「山国根性」をベースとした海洋国家を目指していくというのが、現実的な選択肢だろう。