「格差」は客観、「不平等」は主観―公正な秩序を目指すための概念的準備―
格差は現象
1970年代から80年代にかけて日本人は「一億総中流」意識を持っていたと言われる。しかし、90年代初頭のバブル崩壊から平成不況に突入し、2000年代半ばごろから「格差社会」が叫ばれるようになってきた。
この格差という言葉は経済(所得)や教育水準などを語る文脈で使われることが多いが、格差とはあるものを比較したときの差のことである。その意味で、格差とは客観的に存在するものである。一般的に、格差は否定的なニュアンスで語られるが、本来それ自体は現象であり、良いも悪いもない。
不平等は主観的認識
他方で、不平等は主観的な認識であり、感じるものであり、理不尽であるという価値判断を含む概念である。それは格差の大小に必ずしも相関するものではない。
例えば、メジャーリーグで活躍する大谷翔平選手の年収は約88奥円(広告収入込み)(アメリカ経済誌フォーブズ)であり、このブログを書いている私の収入は・・・。1億円としておこう。そこには87億円の経済的格差があるが、私はそれを不平等とは感じない。どうあがいても私にはメジャーリーグで40本以上のホームランを打ち、160km/hの豪速球を投げられる実力がないからだ。
この世の中の大半の人も同様だろう。イーロン・マスク、ジェフ・ベゾス、ビル・ゲイツ、ウォーレン・バフェットなどフォーブズ長者番付の上位メンバーの資産と自分の資産との著しい格差を取り上げて、不平等と抗議する人がいるだろうか。
他方で、同じ高校や大学を卒業し、ある企業に同期入社し同じような仕事をこなし、わずか数年後に収入に88倍の差が付いていたとしたら、どうだろうか。差をつけられた方は耐え難い不平等と感じるだろう。 人はこのように自分と似たような境遇にある人との相対的な差(格差)を見ながら、それが平等か不平等かを認識している。
格差は発生して当然、不平等は公正に是正する必要あり
人間は生まれからして平等でない。行動遺伝学の知見が明らかにしているように遺伝子レベルで各人の能力はある程度決まっている。私を含む(ほぼ)すべての人は、どんなに努力しても大谷翔平になれないことは明らかだし、それが遺伝子に起因することは誰もが知っていることだろう。
生まれた時点で遺伝子格差があるのだから、結果として経済的な格差が発生するのは当然だ。これはその事態が発生しないようにしたり(共産主義イデオロギー)、不公正な制度によって生み出された場合を除いてそれを無理に是正したりするのは望ましくない。
(なお、「結果の不平等」などと言われることがあるが、私の用語系ではこれは単純に「格差」を指す。)
他方で、不平等という人間の観念は、社会的な公正さを担保することにより緩和することができる(完全に解消できるとまではいえないが)。公正さを追求するための構想は、リベラリズムやリバタリアン、功利主義、平等基底的権利論などの哲学的立場があり、いずれも強み・弱みを持つ。
個別具体的なテーマについてはこのブログで構想していくが、今回の記事では「格差」という概念は客観であり、「不平等」は主観であるという区別をしておきたい。