損得計算は必ずしも合理的な行為ではない―合理性の判断基準は目的と価値―
世の中の「合理性」判断は物事の偏った見方
世の中では損得計算をして得になる選択肢をとることを「合理的」な行動とみなし、損になる選択肢をとることを「非合理的」とみなす傾向がある。しかし、本当にそうだろうか。私はその傾向に違和感を抱いている。私見では、その見方は無批判にある特定の前提に立った上での一面的なものである。
マックス・ウェーバーの社会的行為の4類型
人間の行為には、意識するにせよ無意識にせよ何らか意図が込められており、観察者はその意味を解釈することができる。その考えの下、社会学者のマックス・ウェーバーは社会的行為の4つの類型を立てた。
①目的合理的行為、②価値合理的行為、②感情的行為、④伝統的行為の4つだ。目的合理的行為とは、ある目的に対して適切な手段を選択した行為であり、価値合理的行為とは、特定の価値観に対して適合的な手段をとった行為のことを指す。感情的行為とは、その名のとおり、感情に動機づけられた行為であり、伝統的行為とは、慣習化した行為のことを指す。
ここで主に取り上げたいのは、前二者、つまり目的合理的行為と価値合理的行為だ。人間の合理的行為はこの二つに大別できる。言い換えれば、人間の合理性は二つに区別しなければならない。
囚人は必ずしもジレンマに陥っていない
ゲーム理論に「囚人のジレンマ」というものがある。概略は次のようなものだ。
共同で犯罪を行った囚人AとBが、検事から自白するようにと司法取引をもちかけられた。本来ならば両者とも懲役5年の刑に処されるのだが、2人とも黙秘したらともに懲役2年となる。片方だけが自白したらそちらが即時釈放となり、もう片方が懲役10年となる。2人とも自白した場合は懲役5年となる。
まとめると次のような利得表となる。
囚人B 黙秘 | 囚人B 自白 | |
囚人A 黙秘 | (2年、2年) | (10年、0年) |
囚人B 自白 | (0年、10年) | (5年、5年) |
ゲーム理論では、ともに黙秘したほうが双方の利益が最大化されるにもかかわらず、双方が相手が自白する(つまり裏切る)可能性を考慮して自分の利益のみを考えた結果、二人とも自白を選んでしまい懲役5年になるとされる。つまり、「合理的な」損得計算で最悪回避(ミニマックス)戦略をとっても優越戦略をとっても、結果として双方にとって最善の結果にならない(次善の結果になってしまう)こととなる。
しかし、だ。そもそも2人の囚人ははたして「合理的」な行為をしているといえるのだろうか?
この「囚人のジレンマ」のゲームにはある暗黙の前提が置かれている。それは、囚人は2人とも一刻も早く出所したいと考えているはずだ、というものだ。その前提を置けば、たしかに自白が出所するという「目的」に照らして合理的な手段となる。
しかし、現実を見ればそのような前提は常に成立するとは限らない。(常に成立するのであれば、せっかく出所できたにもかかわらず再犯で刑務所に戻ってくるという事例は発生しないはずだ)。
例えば、囚人の一方が暴力団員で対立集団や仲間集団からの暴力の恐怖にさらされており、刑務所/拘置所に保護を求めるために罪を犯したとしたらどうだろうか。または、極度の貧困にあえいでおり、最低限の衣食住の保障を刑務所に求めたとするケースはどうか(最貧国にはこのような人は多数いる)。その場合、黙秘することが「目的」合理的な選択肢となる。
もしくは、囚人が、相手が自分を裏切ろうとも自分は絶対に人を裏切らないという道徳的価値を持つ人だったらどうだろうか。この場合も黙秘することが「価値」合理的な選択肢となる。(これら踏まえれば、囚人にもいろんな思惑があるため、「囚人のジレンマ」というネーミングはふさわしくない。より正確に表現するなら「出獄企図者のジレンマ」というべきだろう)。
このように、合理性を判断する場合は、目的が何か、どういう価値を持つのかという基準に照らす必要がある。現在、日本社会で考えられている「合理的」とされる行為は、自己の経済的利益の最大化という目的が暗黙のうちに前提されているのだが、これは特定の価値観による一面的な見方といわざるをえない。
なぜ利得計算の上で得する選択肢を選ぶことが「合理的だ」とみなされるのかといえば、現在の資本主義社会がそれを求めており、人々の思考がコスパ思考にとらわれているためだ。現在の社会は、愛や正義、自由、平等などの価値を語ることを煩わしく感じるとともに、人間関係が希薄化しているため頼れるものが金だけになっている。そこで損得感情が合理的とみなされるのは当然だ。
だが、日常的に社会生活をしていればそれとは別の思考回路で行動する人を目にし、コスパ志向の人の目には彼らの行動が非合理的に映る。しかし、私はそのような人もその人の目的や価値に対して合理的に行動していると見ている
価値に駆動される合理的行為
人は目的にのみならず、ある価値によっても駆動される。その価値には、愛、正義、善、平等、自由、夢、安心などが挙げられるだろう。例えば、愛人のために全財産をつぎ込む、自分の信じる正義のために殉死する、一瞬で金持ちになるという夢のために宝くじを買う、安心のため多くの保険に加入するなどの例を想起する場合、それは価値合理的な行為である。
資産を最大化することを目的に据える人にとっては愚挙に見えるだろうが、行為する本人にとっては合理的なのだし、客観的に見てもその人の価値を実現するために行為しているという意味で合理的と認定しうる。
逆に価値合理的に行動する人から見れば、損得勘定で行動する人は没価値で打算的な人間に映るだろう。その冷徹な計算ゆえにそもそも人間味が感じられないかもしれない。
また、同一人物でも状況によっては、目的を追求するか価値を追求するかは変わりうる。冷徹な損得計算により稼いだ金を、無能で投資回収できそうにないが溺愛する子どもに教育費として支出するという人がいても不思議ではない(というか、たくさんいるだろう)。前段は合理的、後段は非合理的に一見思われるが、その人物は一貫して合理的なのだ。
現在、日本社会で跋扈する損得計算=合理的という見方は短絡的であり、本来合理性は、設定されている目的や価値に照らして判断されるべきものであるというのが私の考えだ。