それでも国家は主役であり続ける
国家の相対化
1990年代に冷戦が終結して以来、グローバル化が加速している。その流れでグローバル企業が巨大化する一方、NGOや犯罪・テロ組織も国境にとらわれず活動している。さらにはインターネットと2000年代に登場したSNSでは国境という概念はなく、誰でも瞬時に世界中の情報にアクセスできるようになった。
それと反比例する形で、それまでは主権の原則を基にあらゆること独占的に決定してきた国家の存在感は小さくなり、国家がコントロールできる範囲が狭くなってきた。そして、その流れのまま国家は後景に退き、その他の主体のうちの一つとなるのではないかという言説も見られるようになった。
しかし、私はそのようには考えていない。確かに国家は他の主体に比べて以前ほどの統制力を自在に振るうことはできないが、予想しうる将来、物事を決定し、それを実行的に実施していく主体の中心は国家であり続けると考えている。イメージとしては、「絶対的No.1から最も強い力を持つ相対的No.1になる」といったものだろうか。
グローバルな行動主体の類型
このことを見ていく前の準備として、グローバル化が高度に進展した現在、世界的に活動を展開する主体の類型を紹介しておこう。なお、この類型は井上達夫『世界正義論』の第六章による。
1 超国家体
個別の国家に対してある程度の集合的権力を行使しうる国際的ないし地域的制度機構。代表例は、国連、国際通貨基金(IMF)、世界貿易機関(WHO)、欧州連合(EU)など。
「拡大投射された国家の薄い影」というイメージ。国家を「上から」統制しようとする。
2 脱国家体
国家に対する制度化された集合的権力を持たないが、別の手段で国家の統制に対抗し、事実上の制約力さえ振るう主体。国家的統制に対し「下から」、「横から」、「裏から」批判・抵抗しようとする。
下位区分は以下のとおり。
2-1市民的脱国家体:国際NGO
2-2経済的脱国家体:多国籍企業、国際金融資本など
2-3無法脱国家体:国際テロ組織、麻薬シンジケートなど
国家は後景に退かない
これらの行動主体はいずれも20世紀から21世紀にかけて時間を経るごとに力を増してきたことは事実だが、それでも国家に取って代わることはないし、そうあるべきでもない、というのが私の考えだ。
その理由は、国家の本質が正統な暴力を独占していることにあり、この特徴はその他の主体には見られない国家特有のものであることだ。上記の4主体は暴力手段を持たない(超国家体、市民的脱国家体、経済的脱国家体)か、持っていても正統性がなく国家を打ち倒すほどの力はない(無法脱国家体)ため、国家は今日でも存在意義を保ち続けている。
いかにグローバル企業の代表的な存在であるGAFAMが影響力を増そうとも、国家との利害が対立した場合、暴力行使手段を持たないことから国家に従わざるをえない。ときには国家ともちつもたれつで利用し合い、ときには争い合いながらも、最終的に彼らはアメリカ政府の決定に従わざるをえないのだ。彼らが米軍より強い実力行使組織を編成し、アメリカを統治する意志を持たない限りは。
いわゆる破綻国家と言われる国は、警察なり軍なり暴力装置を集約的・実行的に管理できていな国のことを指し、このような無秩序に堕してしまわないためにも、国家は後景に退くべきでもない。
また、国家は、正統な暴力を独占していることを背景に、無法脱国家体を除くあらゆる主体が活動する上での法制度やルールを定め、その運用を実行的に担保している。だからこそ各主体はその制度的インフラの上で安心して活動ができるわけだ。
このとおり、国家が諸主体の活動を制度的に保障しているという意味で、テロ組織や麻薬シンジゲートなどの暴力組織を除く主体は国家に依存しているのである。だからこそ国家を「正面から」攻撃しようとする主体がいないのだ。
当然のことながら以上は究極的な話であり、まともな国であれば他の主体に対していきなり暴力をちらつかせるようなことはしない。通常は、紛争解決手段が司法という形で整備されている。
国家は正統な暴力を独占する唯一の主体であり、制度を運用・管理しているという点で、今後も後景に退くことはない。特定の国家が身勝手な振る舞いをするという問題があるとはいえ、それはその国家を非難する理由にはなれ、国家自体を否定する理由にはならない。
国家が主役、その他は脇役という構図は今後も変わらないだろう。
主権国家≠国民国家
なお、最後に注釈的に断っておくと、ここでいう国家とは主権国家を指し、国民国家、多民族国家、都市国家などその様態は問わない。国家と民族の単位が一致していなくとも主権国家は成り立ちうる。それどころか歴史上の国家は国民国家ではないし、現在も国民国家と認定できる国家は少ない。