G-5YSV44CS49 私の徴兵制論(1/2)-目的、徴兵制の誤解、徴兵制不要論批判-|歩く歴史家 BLOG
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私の徴兵制論(1/2)-目的、徴兵制の誤解、徴兵制不要論批判-

歩く歴史家

市民的義務としての徴兵制

前々回前回の稿では日本国憲法の第9条を取り上げ、そこでは9条を削除し、自衛隊を戦力としての明記し、それを統制する条項を盛り込むことを提唱した。それに付随して必要となるのが徴兵制だ。

私を含め誰も好き好んで兵役に就きたくない。他の人が国防を担ってくれるなら、それにただ乗りしたいというのが大多数の国民の本音だろう。しかし、国防というのはすべての国民がその便益を享受するものであり、公正さを担保するためには受益者がそのコストを負担しなければならない。

現行の志願兵制の問題点は、幹部クラスを除いて、「経済的徴兵」になりうることだ。もちろんすべての自衛官が経済的理由から自衛隊に入っているわけではないが、その他の手段がないために給料を含めた処遇が安定している自衛官になるという人も相当数いるものと思われる。

それによって国防や戦争が大多数の国民にとって関係ないものと認識され、結果、国民はその便益を享受しているにもかかわらず安全保障について無関心になり、さらには好戦的になる可能性すらある。

こうした認識から、私は、徴兵制を採用することにより国民すべてが兵役義務を負うべきだと考えている。日本は民主政国家を標榜する以上、軍隊も当然民主化しなければならない。後述するとおり徴兵制には多くの誤解がついてまわっており、さらに日本の文脈からすればなにか恐ろしいものと認識されるが、世界的に見れば徴兵制は一般的であり、「先進民主主義国家」といわれる国でも採用されている。例えば、スイス、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、デンマークなど。日本と同じ第二次世界大戦の敗戦国ドイツも2011年に停止はしたが、廃止はしていない上に、最近ではロシアによるウクライナ侵攻をきっかけに再開が議論されている。

徴兵制を論じる際には、徴兵を軍事技術的な面にのみ矮小化して考えるのではなく、より広くかつ根源的に、国民が自らの属する共同体に主体的に関与し、その存続のために市民的義務を履行するための制度だという観点から考えることが重要となる。当然、軍事的観点からは不要と主張しているわけではない。軍事的観点からも必要だが、それ以上に市民的観点からこそ必要であり、両者は両立しうるというのが私の考えだ。

徴兵制の目的

その徴兵制を導入する目的は何だろうか。いくつか考え得るが、ここでは市民的義務の履行、戦争の抑止、予備役の確保の3つを挙げておきたい。

市民的義務の履行

近代民主政国家の特徴は、権利と義務が対になっていることにある。国民一人一人が国に対して何らかの貢献を行うことにより国が提供する便益を享受でき、逆にいえば、国からの便益を享受したいのであれば、それに見合うだけの義務を果たさなければならない、という関係だ。それでなければただ乗り(フリーライド)が跋扈して、国家の基盤が掘り崩されてしまうこととなる。

国が国民に対して提供する便益リストにはあらゆるものが載っている。いくつか例を挙げれば、人権の保護、財産権の保護、社会的保護(年金や健康保険などの社会サービスの提供)、法的保護、種々の権利(選挙権、裁判を受ける権利など)の保障などがあるだろうが、忘れてはならないのが、すべての人間活動の前提となる「安全」の保障だ。

国家は正統な暴力を独占し、それを合法的に行使することができる唯一の主体だ。それこそが国家の定義であり最大の存在意義なのだが、国家はその合法的な暴力を内側にも外側にも行使することにより、国民の安全を実行的に保障することに責任を負う。

国民の国家に対する義務は税という形で果たされる。税をどのような形で納めるかというと、現代では貨幣で納める形態(いわゆる税金)がもっとも一般的だが、歴史的にそれは必ずしも自明のことではない。労働で納めたり、米で納めたりするのがかつての標準だった。それに加えて「血」で納めるのも古代から一般的であったし、現在にいたってもそうだ。「血税」という比喩表現があるが、元来それは文字どおり、共同体の一員としてその存続に血でもって貢献することを意味してきた。

なぜ兵役という形で義務を果たさなければならないか、なぜ貨幣納で代替できないかというと、それは経済的徴兵になるからだ。民主政国家における志願兵制は、経済的に恵まれない社会層出身者に兵役が偏る結果になる。つまり、国民の多数派は税金を納めることにより経済的弱者に安全サービスの提供を外注していることになるのだ。これはフェアではないだろう。

国から安全、その他の基本的サービスを受ける対価として税を払う。ただし、公平性の観点から、それはすべての国民に平等に課される「血税」でなければならない。これが市民的義務としての兵役であり、その義務を果たして始めて上に述べた国家による便益を享受することができる。

戦争の抑止

また、戦争を抑止することも徴兵制の目的だ。それには2つの意味がある。自国が戦争を行うことを抑止すること、外国の侵略を抑止することの2つだ。

まず、一点目の自国が戦争を行うことに対する抑止について、民主政国家における志願兵制は、幹部クラスを除いて経済的徴兵になる傾向があることはすでに述べた。そして軍務とは関係ない国民の圧倒的大多数が、経済的に恵まれない層に「汚れ仕事」を押しつけて、国家が戦争をすることに対して無関心になる。もしくは積極的に戦争を煽ることすらありうる。民主政国家で危険なのは、軍人より多数を占める文民(シビリアン)なのだ。

このことは、2000年代のアメリカ、2022年のロシアの事例を見ればわかるだろう。アメリカがイラク戦争に突っ走るのを先導したのはドナルド・ラムズフェルド国防長官、ポール・ウォルフォヴィッツ国防副長官(いずれも当時)らのシビリアンで、パウエル国務長官、アーミテージ国防副長官など軍出身者はむしろ戦争に後ろ向きだった。考えてみればそれは当然で、責任ある軍の指導層は意義の疑わしい戦争で無為に部下が死んでいくことを絶対に避けたいはずだ。

1960年代からのベトナム戦争が泥沼化し、いざ白人の中産階級出身に兵役が課される段階になると、国内での反戦運動が活発化し、アメリカはベトナムからの撤退に傾いていった。これは徴兵が無責任で意義の疑わしい戦争を行うことへの抑止力となるという事例だ。やや逆説的ではあるが、国民の多数派が無責任な好戦感情に駆られて戦争を開始してしまうと、そのつけを払うのは自分たち自身という状況を作るのが、徴兵制による戦争抑止論の狙いだ。これは対内抑止論である。

他方、徴兵制は外国の侵略に対する抑止にもなる。これは端的に、徴兵による国民皆兵制が導入されれば国が強靱になり、侵略されにくくなるということだ。こちらは順接的でわかりやすい。一定期間の兵役義務を果たした国民は予備役に入ることになり、いざ有事となれば動員される。相手側から見れば、日本の人的側面における防衛力が強化されることになるため、日本に攻め込むインセンティブが下がることが期待される。

予備役の確保、有事の備え

徴兵制の目的は、予備役を確保し、有事になった場合への準備を平時から行っておくことにもある。これは現在徴兵制を採用する国が目指していることで、一番オーソドックスな目的だ。純粋に軍事的な観点からの目的であるが、その制度設計については次稿で触れたい。

以上、徴兵制の目的を3つ挙げたが、それぞれ排他的な関係にあるわけではなく、矛盾もしない。この3つを連動させることが私の徴兵制論の眼目である。

徴兵制と兵役に関する誤解

先へ進む前に、徴兵制と兵役を論じる際に、誤解もしくは偏向した前提認識を持っている人が少なくないため、それを正す意味を込めてその代表的な論をいくつか見ておく。

徴兵制は戦争を誘発するものだ

日本で徴兵制と聞くと多くの人が恐怖感や拒否感を覚え、中にはアレルギー反応を超えてアナフィラキシーショックを起こす人がいるかもしれない。戦前の日本の経験から、徴兵制が日本の侵略戦争を引き起こしたとする認識から、少なくとも遠くない過去には軍隊は絶対悪であり、徴兵制などもってのほかだとする考え方が存在したし、現在も存在する。

戦後時間が経過し世代が進んでいくとともに、このような極端な考え方は徐々に薄らいでいるように私は感じるが、すでに述べたとおり徴兵制は戦争を内側からも外側からも抑止するための制度だ。

戦前の日本のように言論の自由、表現の自由、集会・結社の自由などの市民的権利が著しく制限されていた社会における徴兵制は最悪である。一部の軍部や権力者が自己の都合によって国民を徴兵し、戦争に駆り立てていく手段になりうる。現に日本にはそうなった歴史がある。

一方ですでに述べたとおり、民主政国家における志願兵制は、最悪とは言わないまでも公正の観点から大きな瑕疵を抱えている。国民の大多数が経済的理由によって軍隊に入った一部の者に国防を任せきり、自らを安全地帯に置きつつ好戦的になるという瑕疵だ。 民主政国家における徴兵制は戦争を誘発するものではなく、逆に抑止するものだ。

兵役は男性が就くものだ

兵役は男性のみが負うものだとする誤った認識もある。実際、歴史上でも現代でも、あらゆる所で兵役には男性が就いてきた/いる。しかし、兵役は男性が就くものだとする考え方は、「兵役は税である」という観点と男女平等・性差別の禁止の観点からすればおかしいことがわかるだろう。国家が提供する便益を享受する「すべての」国民は、血を持って税を納めるべきだ。

女性だけが兵役を免除されるとなった場合、男性側からすれば「男性が国の独立と安全を保障しているにもかかわらず、女性が徴兵されないのは不公平である」という非女性差別主義者でも感じるまっとうな不平が出ることは避けられない。さらには急進的なマッチョイズムの立場から「それがまかりとおるなら、女性からすべての市民的権利を剥奪せよ」という主張が出てきてもおかしくない。

このような観点から、現にスウェーデン、ノルウェー、イスラエルなどは女性も兵役義務の対象としている。これは公正だ。

兵役は20代の若者が就くものだ

国が提供する便益を享受したいなら血税を払うべきである、とする観点から、男性だけを徴兵対象にするのが間違っているのと同じく、年齢によって兵役を課すか否かを決めるのも公正ではない。

徴兵の対象となるのは、公平性の原則からすれば体も頭も働くすべての国民であり、誰もが無差別に一度は兵役に就くべきだ。そして、部隊での兵役を終えた者は身体が健康なうちは予備役に組み込まれなければならない。

身体能力的な観点から老兵に入隊されると困るのではないかという反論もあるだろうが、現代の戦争は銃剣を持って荒野を前進したり、203高地を駆け上がっていくわけではない。体力があるに越したことはないが、軍隊(特に陸軍)には年齢と身体能力に応じた多様な任務が存在しており、国民皆兵制の下でも50歳代、60歳代でできることはある。現に60代の自衛官はいる。

徴兵制を国民が権利を享受するための市民的義務として捉えるなら、20代の若者だけに兵役を課すのはおかしいことがわかるだろう。以上から、徴兵制は老若男女、貧富の差を問わず、すべての国民に適用されるべきだ、という結論になる。

徴兵制は素人を戦場に突っ込む制度だ

ウクライナに侵攻し、兵力の不足に悩む現在のロシアは短期間の訓練で新兵を前線に展開している。一方、ウクライナも被侵略国なのでそうせざるを得ない事情がある。

しかし、通常、徴兵制は素人を前線に突っ込ませるための制度ではない。むしろ逆で、そのような事態に陥らないないよう平時のときから備えておくことで抑止力を保つというのが徴兵制の目的だ。

徴兵制不要論、それに対する私の反論

では次に、徴兵制を不要と考える立場の論拠を示しつつ、それに対する私の反論を見ていこう。

時代遅れ論

まず、国際政治状況からして徴兵制は時代遅れになったとする説がある。曰く、米ソ冷戦が終わって以降、国際政治的な緊張関係が和らぎ、ソ連(とその後継ロシア)による侵攻の可能性が少なくなったことから、徴兵制は時代遅れだ。軍隊は非生産的で無駄に金を食うからできるだけ小さくしたほうがよい。

しかし、ロシアによるウクライナ侵略、中国の軍事力の増強、北朝鮮の核開発などを考慮すれば、この説自体が時代遅れになっている。時代は徴兵制の再復活の方向に舵を切りつつある。

軍事技術的観点から時代遅れだとする論もある。曰く、フランス革命勃発後の干渉戦争から第二次世界大戦までは国民を総動員する国家総力戦が闘われ、それには大量の兵士が必要だったが、現代の戦争では兵器のハイテク化が進んでおりその扱いには高度な技能が必要なため、わずか2~3年軍務に就いただけの素人は役に立たない。

確かに軍の装備品はハイテク化が進んでおり、徴兵者が扱えるような代物ではないし、中途半端に扱うべきでもないだろう。しかし、陸軍の兵士は短期間の訓練でもそれなりの兵士になれる上、陸軍は職種のオンパレードなので必ずしもハイテク兵器を扱わなくともできる任務は無数にある。現に自衛隊員も全員がハイテク兵器を使っているわけではない。

されに、徴兵制の目的はすでに見たとおり市民的義務の履行、戦争の抑止、有事への備えであるため、細かい軍事技術の話を持ち出すのは筋違いである。

社会経済的損失論

若者を徴兵すれば、社会経済的観点から国の損失になるとする議論もある。しかし、これは事の軽重を取り違えている。社会経済的なコストベネフィットと、国の安全を守るための徴兵制を同じ次元で考えるのはナンセンスだ。

徴兵制は、国民が社会経済的活動を安定的に行う基盤を維持するための制度であり、兵役は社会経済的活動より深い次元の活動だ。徴兵による軍務と一般社会による経済活動とを天秤にかけ、あたかもトレードオフのように考えるのは正しくない。

確かに大谷翔平のような世界規模で秀でたスポーツ選手を20代で徴兵するのは社会的な損失で、国民のほとんどはそれを望まないだろう。それならば、そのような特殊能力を持った人たちは引退してから徴兵すればいいだけだ。ルールを設定した上で徴兵猶予を認めることは公正の原則に反しない(当然、「猶予」であり「免除」ではない)。

スポーツ選手などは一部の例外だが、もう少し一般人を念頭に置いた議論もある。曰く、他のことに向いている人を徴兵するのは人的リソースを無駄にすることになる。人的リソースを最適化させるには志願制という個人の選択による入隊制度のほうが優れている。

事実問題として、自衛隊の定員割れが続く現状に照らせば、そもそも志願兵制はすでにうまくいっていない。もう少し控え目に言えば、今後も維持できる可能性は低くなっている。個人の選択といっても、多くの下士官クラスでは事実上の経済的徴兵になるケースもあるため、実質的に個人の自由意志による選択とはみなせるのかも危うい。

また、陸軍は職種のオンパレードで内部にあらゆる特技を持った者が活躍できる包容力がある。各人の能力の差(向き不向き)を議論するなら、能力に応じて軍隊内の役割を付与すればよい。いろんな特技を持つ人を動員することで軍が強化されることも期待できる。

民間企業から人を徴兵する場合、確かに輩出する組織にとっては一時的に人的損失が出るかもしれないが、それは部分損失だ。徴兵された人はなにも軍隊でバカンスを過ごすわけではなく、一般社会においてと同様に自分の能力を活かした活動を行うこともできるため、全体的な差し引きでは損失は出ない。

負傷や死亡した場合、補償が必要となりコストが発生するという論もある。これに対しては、平和と安全はただではない、国民として相応のコストは覚悟すべきと言えば十分だろう。

素人は手に負えない論

既存の自衛隊では物的・人的リソースが十分ではなく、徴兵される大量の素人を教育・管理したり、予備役を定期的に訓練する余裕がないとする論もある。

これも同じく、国の安全は国民が社会経済活動を行っていくための大前提であるため、増税してでもリソースを増やして対応すべきことだろう。「リソースがないから徴兵できません」というのは既存の思考様式から抜け出せない役人的発想だ。

繰り返すが、徴兵制は軍事技術上の必要性からのみ要請される制度ではなく、まずもって、国民が市民的義務を果たすことによって市民的権利を享受するための制度なのだ。

「現状では」不要論

現在の国際政治及び安全保障・地政学的環境、仮想的との戦力バランスを踏まえれば、日本はそこまで差し迫った状況に置かれておらず、既存の自衛隊で対応できるため、徴兵制は「現状では」不要という説もある。

この説には、「現状では」と留保がついていることからわかるとおり、地政学的・戦力的なバランスが崩れたら徴兵制が必要になるという含意がある。徴兵制導入には、制度設計や人員配置、予算措置など準備に時間を要するため、上に述べたようにいざ必要になってから制度を導入するのでは手遅れだ。それこそド素人を戦場に突っ込ませることになってしまう。

日本を取り巻く安全保障環境が流動的な中、そのような事態にならないよう、徴兵制はとりあえず何も起きていない今から導入する必要があるだろう。環境はある出来事をきっかけに急激に動き始めるため、こちらの準備を待ってはくれない。

以上が私の考える徴兵制の目的と、徴兵制にまつわる議論だ。次の稿では徴兵制度の設計について具体的な私案を展開していきたい。

プロフィール
歩く歴史家
歩く歴史家
1980年代生まれ。海外在住。読書家、旅行家。歴史家を自認。
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