G-5YSV44CS49 私の憲法9条論(2/2)-9条を削除し戦力を統制する。そして徴兵制を採用する-|歩く歴史家 BLOG
政治・経済

私の憲法9条論(2/2)-9条を削除し戦力を統制する。そして徴兵制を採用する-

歩く歴史家

戦力統制規定論

前稿では、憲法9条をめぐるいくつかの立場を紹介し、自衛隊は日本国憲法9条に照らし違憲の存在であるため9条を改正する必要があるとの私見を述べた。本稿では戦力としての自衛隊を憲法に位置づけるための具体論について見ていきたい。

本稿も前項に続いて法哲学者で東京大学名誉教授の井上達夫の「9条削除論」を踏襲している。井上の9条を含む憲法改正論は論理的に体系立っており一貫性がある。世界の標準的な憲法に即しており、護憲派の欺瞞が完全に解消されてもいる。論理的に美しいとさえいえる水準に達しており、骨格の部分はまったく修正する必要がないため、以下では井上説を紹介・解説しつつ、私なりの考えを付け加えたい。(参考:井上達夫『立憲主義という企て』第4章。p.300-p.305では具体的な改正条文も提案されており、論理的な隙がない。関心のある方は参照いただきたい。)

なお、井上自身は自説を「9条削除論」と名付けているが、これでは9条を削除して終わりで自衛隊を憲法外の存在として放置し続けることを正当化しているような誤解を招きかねない。井上が9条の削除を主張しているのは、あくまでもそれが不可欠の前提作業だからで、井上説の最優先目的は、戦力を保有するならばそれを憲法ではっきりと認知し、それを統制する規範を憲法で規定することにある。そのため、その意味内容を組みとった上で「戦力統制規定論」と呼んだほうがより正確で、無用な誤解を避けられるだろう。

それでは、以下でその内容を紹介していこう。この改憲案は3つの段階で構成されている。①9条を削除して戦力統計規範を盛り込む、②外国軍駐留基地の設置候補となる地方自治体における住民投票の導入、③戦力保有時の徴兵制の強制導入の3つだ。

第一段階 9条を削除し、戦力統制規範を盛り込む

1-1 9条を削除し、戦力を認知する

憲法はそもそも安全保障を含む政策を遂行する際のルールを定めるものであり、抽象的な理念を謳うことはあっても具体的政策そのものを定めるものではない。そうしてしまうと、その政策の反対者は憲法を解釈によって自己の都合のいいように捻じ曲げようとするためだ。

9条がその最たるものであり、9条は戦力の保有を禁止しているため、それを保有したいと考える者は「自衛隊は軍隊ではない、実力組織だ」と事実を歪曲せざるをえなくなる。このようなアクロバティックな詭弁を排し、憲法と実態を合わせるため真っ先に行わなければならないのが9条の削除だ。

現行憲法では9条があることによって日本には戦力がない建前になっている。それゆえに憲法は戦力を統制することができなくなっている。自ら禁止している戦力を憲法が統制するということは矛盾するからだ。

だが、戦力を憲法ではっきりと認知し、その行使に関するルールを規定するというのは極めて重要なことだ。歴史的な事情があるとはいえ、それを憲法で定めない国は異常で危険極まりない。

なお、戦力を保有するか否かは政策論争であるため、この案は戦力の保有を憲法で義務づけているわけではない。実際にそれが選ばれる可能性は限りなくゼロに近いが、戦力を保有しないと国民が選択する余地を残している。戦力を保有するとすればという留保を付けた上で、その際の戦力の行使に関するルールを規定しているのだ。

さて、9 条2項では戦力の保有は明確に禁止されているため、2項を削除するのは理解できたとしても、なぜ1項も削除しなければならないのか。それは、これがあると戦力行使は個別的自衛権に限定されるのか、集団的自衛権にまで拡大されるのかという安全保障政策をめぐる政治的論議が9条1項の解釈論に絡め取られてしまい、元の木阿弥になってしまう危険性があるからだ。この事態を避けるために、1項、2項ともに削除する必要がある。

こうして、9条をまるごと削除した上で、憲法で戦力をしっかりと認知し、その行使に係るルールを定めようとするのが最初のステップだ(その戦力を自衛隊と呼ぶか軍隊と呼ぶかは本質論ではない)。これによって、「自衛隊は合憲か違憲か、戦力か戦力ではないのか、合憲・違憲だとすればそれはなぜか」という9条及び自衛隊の解釈をめぐる「神学論争」と「詭弁論大会」に終止符が打たれることになる。

1-2 文民統制の規範を盛り込む

9条を削除し戦力を認知した後に行うことは、誰がどのような手続きで戦力を行使するのかを定めることだ。民主政国家においては、戦力の行使を決定するのは通常文民(シビリアン)である。

現行憲法は9条が存在することによって文民統制(シビリアンコントロール)の規範も持ち得ない。66条2項は「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と定めているが、内閣総理大臣と国務大臣が文民でなければならない(軍人であってはならない)と言っているだけであり、戦力は文民たる内閣総理大臣が統制しなければならないとまでは言っていない。戦力を持たないという建前になっているため、そう規定することができないのだ。

文民による戦力を統制する規範を盛り込むためには、9条を削除して、「軍隊の最高指揮命令権は内閣総理大臣に属する。内閣総理大臣は文民でなければならない」と明記しなければならない。これは要するに、「文民による軍人の統制」である。

1-3 戦力行使時の国会事前承認

さらには、戦力を行使する際の手続きとして、国会による事前承認の規定を盛り込む必要もある。

これは軍の指揮権を内閣が恣意的に乱用しないための措置である。軍人も暴走する可能性はあるし、戦前の日本はまさにそれが実現し軍国主義化してしまった。しかし、文民も同じく暴走する可能性はあるどころか、むしろ民主政国家においては、文民は軍人より好戦的だ。したがって、文民たる内閣総理大臣による恣意的な戦力の乱用を監視し抑止しつつも、戦力行使の正当性を審議し必要とあれば内閣に授権するのも立法府の役割だ。要するに、こちらは「文民による文民の統制」といえるだろう。

戦力行使の手続きとしては、内閣が潜在的な敵国が日本に対する攻撃に着手しようとしている証拠を掴んだら、それを国会に提出する。国会はその証拠を精査し戦力行使の妥当性を審議した上で、妥当性があると認定すれば内閣に戦力の行使権限を授ける。

ここで、実際に敵国から発射されるミサイルは15分で日本領土内に着弾するのに、その間に国会を召集していては遅すぎる誤解が発生しうるが、事前承認というのはそのようなものではない。内閣が日本が攻撃される明白な証拠(例えば潜在的な敵国がミサイルに燃料を注入している、日本への上陸準備を進めているなどの偵察画像)を国会に提出すれば、承認するのは数日前でも1週間前でもいい。

さらには、議院内閣制を採る日本では、立法府の多数派から内閣が組織されるため、このチェック機能はうまく作動しないのではないかという疑問が湧いてくる。その背景には、アメリカのような大統領制を採る国では行政府と立法府は明確に分離されているため、これは機能するが、日本でははたしてそれがうまくいくのかという懐疑心がある。

確かにより厳格な三権分立を採る国に比べれば、日本ではその機能は作動しにくいかもしれないが、国会で審議されることにより野党が戦力行使の妥当性判断に関与する余地が生まれる。また、審議過程において一般国民にも国会を通じて情報と審議内容が開示されるため、国民も間接的に関与することができる。

1-4 軍事法廷の設置

このように戦力行使に係る最終責任者と手続きが規定された上で、戦力としての軍隊の規律を確保し、違反が起きた場合のルールを定める法体系も整備しなければならない。これが軍事刑法であり、それに基づいて司法権を行使する機関が軍事法廷だ(軍法会議、軍事裁判所とも呼ばれる)。

通常どの国も戦力を保有するにあたっては、軍が自国の通常裁判所の権限が及ばない場所(自国領土外)で行動するという特殊性から、軍事法廷を一般法廷から独立して軍内に設置している。

しかし、9条により日本には戦力はない建前になっているため、当然軍事法廷を設置しえない。さらに、戦前の陸軍省・海軍省といった行政機関が特別裁判所として機能していたことから、現行憲法第76条2項は「特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。」と明確に規定している。

だが、現に戦力としての自衛隊は存在し、多国籍軍の一部として海外派遣された実績(イラク、スーダン、ジブチなど)もある。そこで日本は当該国との間で地位協定を締結することにより、自衛隊員は現地法で処罰されないという治外法権を与えられる。その前提として、その代わりに日本の軍事法廷で裁かれるということがある。

しかし、日本には軍事法廷はないため、自衛隊員は法的空白状態に置かれている。その中で武器を使用せざるを得ない状況に追い込まれ、仮に誤射などによって民間人を殺害してしまったなどの事例が発生すれば国際法上の問題を引き起こしてしまうため、自衛隊員は武器を使わざるを得ないのに使えないという危険な状態に置かれている。

強いて言えば、刑法の国外犯の適用はできるが、自衛隊員は国策で派遣されているにもかかわらず一般の刑事犯(殺人者)と同列に扱われるのは明らかにおかしい。自衛隊員も納得がいかないだろう。こうした中、日本はジブチと地位協定を結んでいるが、これは国家詐欺である。仮に協定相手が大国であればこのようなことは絶対に認めないだろう。結論的には、自衛隊員を守るためにも軍事法廷は必要ということになる。

なお井上案では、行政機関は終審として裁判を行うことができないとする現行憲法の規定は生かされ、軍事法廷での判決に不服がある場合は通常裁判所に訴えることができるとされる。

以上が第一段階だ。これを達成することにより、9条をめぐる「神学論争」は消え去り、戦力を行使するための法的環境が整い、ようやく実質的な安全保障政策に集中できるようになる。日本がまともな法治国家として存在するためには、少なくともここまでは必ず行わなければならない。

第二段階 外国軍駐留基地設置の際の住民投票

これに加えて、井上は外国軍駐留基地を設置する際には、関係する自治体における住民投票の実施も規定しなければならないとしている。当然、外国軍駐留基地という場合、米軍基地が念頭にある。

民主政は「多数者の専政」に陥りやすいが、現状で沖縄に米軍基地が集中しており、多数者たる国民が沖縄県民という少数者を無視して自分のエゴを押しつけている構図となっている。その中で国民の多数派はその便益を受けていながらコストを負担していない、つまり沖縄にただ乗りしているため、この改正案は現状を反省的に踏まえて出されたものである。

その案の内容は次のようなものだ。外国軍の駐留基地が設置されようとしている、もしくはすでにされているすべての自治体においてそれを認めるか否かの住民投票を行い、過半数の同意により可決されれば設置する。否決されればそこには設置されない。仮にすべての自治体が拒否したとすれば、それは国民の総意として駐留軍は不要と判断されたことになるため、撤退してもらう。

私見では、仮にそうなった場合、論理的には自主防衛するということを含意するため、それに着手する/せざるを得ないということになるだろう。

国民の大多数が沖縄にただ乗りしている現状に鑑みると、第一段階に加えて第二段階も主張しなければならない。ただ、国民にはただ乗りしていたいという意識的・無意識的な願望があるため、いざこの改憲案を発議しようとすれば大いに紛糾することが予想される。

第三段階 徴兵制の導入

以上が第二段階だが、井上はさらに踏み込み、第三段階として、戦力を保有すると決定した場合、徴兵制を採用することが必須であると主張している。徴兵の対象者は国民全員である。

徴兵制が採用されるのは、軍事上の必要性からではなく、政治的の必要性からだ。専政国家での徴兵制は軍事的暴発を招きやすいが、民主政国家での志願兵制は政治家も国民も好戦的になりやすい。

志願兵制においては、その社会内で経済的に恵まれない層が経済的理由から入隊することとなり、事実上の「経済的徴兵」になってしまう。結果的に国民の大多数も政治家も自分が直接的に戦争に関わることはないため、戦争に無関心になる。こうして、文民は自分とは関係ない誰かが戦場に行く限りにおいて好戦的になるのだ。

だが、徴兵制を採用することで、政府と国民が無責任な好戦感情に駆られて戦争を始めることを抑止することが可能になる。戦争を起こしたらそのつけを払うのは国民全員になるためだ。当然、政治家や官僚、軍需産業の経営者の家族・親族も平等に徴兵される。彼らを含む国民が愚行を犯せば、自分にその塁が及ぶこととなる。この状態を作り出し、戦力の行使責任を国民全体に負わせようとするのがこの案の狙いだ。

さらに憲法14条1項が「人種、信条、性別、社会的身分または門地」による差別を禁止していることから、兵役義務にも性別による差別禁止が貫徹されるべきなので、女性も男性と同様に徴兵対象となる。

徴兵制を導入し国民皆兵制を実施するにあたっては、国民が憲法と国際法の諸原理を理解するための研修を受けることが義務付けられるとともに、良心的兵役拒否権も保障される。

徴兵制を導入するということは軍隊を民主化することであり、研修の目的は、新兵に対して国際法と立憲民主主義(当然、文民統制を含む)の尊重を規律として浸透させることにある。

良心的兵役拒否権が認められるのは、自分は殺されるリスクを負ったとしても相手を殺さないとする良心を持つ者(例えば絶対平和主義者)を尊重するためだ。ただし、事実上の兵役逃れとして良心的兵役拒否権が乱用されないよう、その権利行使と引き替えに重い代替任務が課される。例えば、消防活動、災害救助活動、非武装看護などである。

改正戦略の修正:徴兵制を第二段階に持ってくる

これが井上達夫の徴兵制導入論の内容で、これも筋が通っており本質的な部分を私が修正・改廃する必要はない。ただ、改正戦略として徴兵制論を第二段階に持ってきたほうがよいだろう。

理由としては、次稿で述べる国民の権利・義務の観点から徴兵制のほうが多少なりとも政治的に導入しやすく、それを一定期間実施した上で住民投票の導入に進んだほうが国民としては受入れやすくなると思われるためだ。

国民は軍隊での兵役を経験することにより、自国の安全保障について否応なく考えざるを得なくなり、現在のように無関心でいられなくなる。その結果、必然的に日本の防衛のあり方、基地のあり方について国民的に議論する素地が徐々に醸成されてくるだろう。軍隊はこのように、自国のあり方について考えを発展させる「教育機関」ともなりうる。

こうして安全保障について議論する素地ができてきたところで、住民投票に係る改正案を発議することにより議論がより深まることが期待される。仮に、あいかわらずただ乗りしたいという国民多数の態度は覆らなかったとしても、軍務の経験から、自主防衛をすることの意味と負担すべきコストを知った状態で改憲議論が展開できる。

どのような結果になるにせよ、住民投票を提起する場合、安全保障に無関心な国民にいきなり提起するよりも、兵役経験がある国民に提起したほうが実りのある議論になるだろう。

妥協案としての次善策、三善策

以上が法哲学者・井上達夫が提唱する「9条削除論」、私がそれを改称して「戦力統制規定論」とするものの内容だ。冒頭にも述べたとおり、この説は論理的に完璧に筋が通っており、現行憲法9条と自衛隊の矛盾、9条解釈にまとわりつく欺瞞がきれいに解消されている。

しかし、政治的にこれが一足飛びに受け入れられる可能性は少ないため、井上は次善案、三善案を(やむなく)認めている。次善案は、専守防衛、個別的自衛権の枠内でなら戦力を保有してよい憲法に明記した上で、戦力統制規範(本稿での第一段階にあたる戦力行使時の国会事前承認、文民統制、軍事法廷の導入)を盛り込むという妥協案だ。

そして三善は、集団的自衛権の行使まで認める形で戦力を保有してよいと憲法に明記し、その上で戦力統制規範を盛り込むというさらなる妥協案だ。そして最悪なのが現状の憲法外で戦力が肥大化していく状態だ。

本稿は以上だが、次稿ではこの井上案で採用されている徴兵制の導入についてもう少し深く考えていきたい。

参考文献

  • ・井上達夫『憲法の涙――リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください2』毎日新聞出版社、2016年
  • ・同『立憲主義という企て』東京大学出版会、2019年
  • ・井上達夫、小林よしのり『ザ・議論! 「リベラルVS保守」究極対決』毎日新聞出版、2016年
プロフィール
歩く歴史家
歩く歴史家
1980年代生まれ。海外在住。読書家、旅行家。歴史家を自認。
記事URLをコピーしました