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私の憲法9条論(1/2)-自衛隊は違憲の存在なので憲法を改正する-

歩く歴史家

憲法9条の精神を守りつつ改正する

前々稿前項では、現在の東アジアの国際環境を概観し、将来ありうるシナリオを想定しながら、日本の安全保障政策の方向性に関する私論を述べてきた。そして超えるべき壁として日本国憲法第9条が国民の前に立ちはだかることに言及した。

日本で実質的な安全保障の議論をしようとすると、憲法9条が常にまとわりついてき、9条の条文解釈論に議論が絡め取られてしまう。その結果、いつまで経っても実質的な議論ができないという状況にある。

後に紹介するとおり、憲法9条の条文を温存したい護憲派も、政策上の必要性から本音では9条を改正したい保守派も、9条がある中で自衛隊を保持するのは合憲か違憲か、合憲だとすればどのような理屈に基づいて合憲なのかについて、自分の好きな政治的立場を9条に仮託しながら「神学論争」を繰り返してきた。

しかし、東アジアの国際情勢が日本にとって不利なものになっている現在、このような「神学論争」に時間を費やすのは不毛だ。安全保障の実質的な議論を深めていくためには、その前段階として9条を改正する必要がある。

ただし、9条の精神は、パリ不戦条約の精神にも国連憲章にも則ったものであり遵守するべきだというのが私の立場だ。そして、9条の精神は日本国憲法の前文でも表明されており、9条の条文を改正したからといって破棄されるものではない。

本稿では、私の9条解釈を確認し、あらゆる政治的立場に立脚した9条解釈論を紹介する。そして憲法9条の解釈論がいかにねじ曲がったものかを指摘していく。

なお、憲法9条に関する私見は、法哲学者で東京大学名誉教授の井上達夫の「憲法9条削除論」を完全に踏襲していることを最初に確認しておく。

私の9条解釈:自衛隊は違憲の存在なので憲法を改正すべき

まず前提として日本国憲法の第9条の条文を確認しておこう。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この条文を素直に読めば自衛隊の存在は明らかに違憲である。後述するように、いろんな手練手管を駆使しながら自衛隊は合憲であるとみなす説があるが、これらはまともな議論ではない。まずこの点をしっかり確認しておこう。

憲法は戦力の保有を禁止しているにもかかわらず自衛隊は現に存在する。すると、憲法と現実の齟齬を修正するためには次の2つのうちどちらかを選ばなければならないということになる。

  • ① 現実を9条の条文に合わせる。つまり自衛隊を廃止する。=自衛隊廃止論
  • ② 憲法を現実に合わせる。つまり憲法を改正する。=憲法9条改正論

加えて、「憲法を堂々と無視し、現状を追認する」という立場も考えられ、事実上そう主張している護憲派もいるが、これは最悪だ。「法は守る」というのは、立憲主義の基礎中の基礎である。いや、何も立憲主義など持ち出さなくても、人間として存在している限りいかなる社会でも妥当する当たり前の規範なので、この立場は退けられるべきものだ。法が守れない事情があるなら法を改正するというのがまっとうな姿勢だ。

私は現行憲法9条を普通に読めば自衛隊は明らかに違憲の存在であり、憲法は遵守しなければならないという立憲主義的立場をとる。さらには、前稿でも述べたとおり、東アジアの安全保障は日本に不利な方向に変化しており、将来的には単独自主防衛の可能性も念頭に置かなければならないと考えている。したがって、私は憲法9条改正論を主張する。

9条解釈をめぐる「神学論争」と「詭弁論大会」

私の具体的な憲法改正論については次稿で展開していくことにするが、その前に憲法9条に関するいくつかの立場とそれぞれの憲法解釈論を紹介する。(この整理は、法哲学者・井上達夫の説に従ったものである。)

原理主義的護憲派

まず、原理主義的護憲派と称される立場がある。これは、9条を素直に解釈すれば自衛隊は違憲であることを認めつつ、現実には自衛隊が存在しているため、その存在を違憲だと主張しつつ現状を凍結する、それによって自衛隊の活動が肥大化していく事態を避けられるとする立場だ。彼らは本音では認めている専守防衛に向けた明文改正に取り組もうとはしない。この論を主張する代表例が日本共産党だ。

「原理主義的」と呼ばれるのは、憲法9条を原理的に解釈しているという意味においてだ。憲法を原理に忠実に守っているという意味ではない(むしろ逆だ)。原理主義的護憲派は、9条の解釈においては自衛隊違憲論をとるため、そこに欺瞞性はない。非常に素直に9条を読んでいる。

しかし、実際には憲法の条文を無視して自衛隊の存在を黙認・是認しているため、これは立憲主義の立場からは唾棄すべき議論だ。「憲法を堂々と無視しろ」「憲法なんてどうでもいい」と主張しているようなもので、立憲主義を破壊するような主張だ。これが許されるなら法の支配などあったものではなく、日本はまともな近代国家とはみなされなくなるだろう。

原理主義的護憲派が「法は守らなければならない」とまともな立憲主義の立場をとるならば、すでに述べたように自衛隊廃止か憲法改正を主張せざるをえなくなる。憲法改正を主張するなら私と同じ立場になるが、もし自衛隊を廃止すると主張した場合、彼らは次の疑問に答えなければならない。

  • ・そもそも日本国民は自衛隊の廃止など望んでいるのか。
  • ・自衛隊を廃止した場合、現実政治上、日本国民は米軍の完全な保護下に入らざるをえなくなるが、これでまともな独立国といえるのか。
  • ・自衛隊なしで国の独立と安全をどのように守るのか。
  • ・自衛隊を廃止すれば潜在的な侵略国に侵略インセンティブを与えてしまい、結果的に周辺国の安全保障環境が悪くなることが想定されるが、それにどう対処するのか。

結局、原理主義的護憲派はこれらの疑問にまともに答えることはできないだろう。とすれば、まともな立憲主義者でありたいなら、彼らは9条の改正を主張せざるをえないという結論になる。

絶対平和主義者

いっさいの暴力を否定する「絶対平和主義者」という立場もある。その人たちも自己の信条に従って自衛隊の廃止を主張せざるをえない。「自分は暴力を振るわないが、他者(自衛隊)が敵に対して振るう暴力は是認します。そしてその結果得られる安全という利益はきちんといただきます」というのはフリーライダー的欺瞞だからだ。その上、「私の手はきれいでしょ。絶対平和主義というのはやはりすばらしいものです」と主張すれば偽善の極みだ。

真の絶対平和主義者は「たとえ自分が殺されるリスクを負ったとしても、相手を殺し返さない」という峻厳な覚悟が必要になるが、絶対平和主義を語る者の中に、本気でその覚悟を持っている者がどれほどいるのかかなり疑わしい。そのような人間は無視しえるほどしかいないと私は見ている。だが仮にそういう人がいたとすれば、その人は「自衛隊を含む国民のみなさん、仮に敵があなたを殺そうとしたとしても相手を殺してはだめです」と主張するしかなくなる。

絶対平和主義者はそれを実行する権利を有するため、自分はその信条に基づいて行動すればよいし、仮にそれができれば道徳的に崇高なことだろう。だが、他人にその考えを押しつける権利はない。したがって、絶対平和主義者は次の疑問に答えなければならない。

  • ・国の政策として絶対平和主義を採用し、非暴力をすべての国民に強制するとすれば、その正当化根拠は何か。言い換えると、誰でも自分や家族を守る権利があるはずなのに、なぜ他者に対して「侵略者に対して抵抗するな、暴力を振るうな」と強要できるのか。
  • ・そもそも一般的な人が自己を防衛したいという本能をどうやって克服できるのか。
  • ・非暴力を主張する以上、論理必然的に刑法第36条1項に定められた正当防衛の権利も否定しなければならないが、それも主張するのか。しない場合は、なぜしないのか。

絶対的平和主義という言葉を聞くと、なにか「美しいもの」のように錯覚しがちであるが、その内実を見てみれば恐ろしいほど厳しいもので、「普通の人間」にはとうてい耐えられるものではないだろう。当然、私がとる立場ではない。

立憲志向的護憲派

原理主義的護憲派の自壊性と欺瞞性を克服するために出てきたのが、私が「立憲志向的護憲派」と呼ぶ立場だ。

それは、自衛隊は戦力ではなく実力組織だとみなして、憲法9条は個別的自衛権・専守防衛の範囲内であれば合憲だと主張する立場だ。

憲法は守らなければならないという立憲主義の規範を守り、9条をそのまま護持/放置し、現実レベルでは自衛隊を保有するという方程式を解くために編み出された論理だ。その意味で私は「立憲志向的護憲派」と呼んでいる。(法哲学者・井上達夫が「修正主義的護憲派」と呼ぶものだが、それでは意味内容が伝わりにくいため私なりに改称した)。

安倍政権下で集団的自衛権容認に向けた解釈改憲が行われる以前の自民党や内閣法制局がこれをとっていた。憲法学者にもこの立場をとる者はいる。両者の政治的な立場は逆(前者は本音では9条改憲派、後者は護憲派)だが、方程式を解くためには同じ結論に至る。

「立憲志向的護憲派」というと、何かよさそうな響きに聞こえるかもしれないが、自衛隊を戦力と認めていない点で欺瞞的だ。立憲主義を守ろうとする規範は生きているため一応の敬意は評すべくまともそうな名称を与えたが、内容は破綻している。

自衛隊は世界中の誰がどう見ても戦力であり軍隊である。そもそも9条と自衛隊は両立しないところを自衛隊を合憲として無理矢理位置づけようとするから、「自衛隊は戦力ではない」とアクロバティックな詭弁を弄するしかなくなるのだが、これは結論先取りの誤謬だ。明らかな事実の歪曲であり、このような詭弁は通用しない。

まともに日本語を読める者が普通に9条を読めば、どう考えても自衛隊は違憲なので、このような詭弁は止めるべきだ。詭弁を弄し続けるかぎり、その者のうさんくささが露呈し、信用が失墜してしまうだろう。

その他の詭弁的立場

その他にも、9条2項の「前項の目的を達するため」という部分に着目し、1項はパリ不戦条約を受け継いでいるため自衛権は否定しておらず、その範囲内なら戦力の保有も認められると解釈する立場もある。いわゆる「芦田修正論」と言われる立場だが、これは筋が悪いため、立憲志向的護憲派も自民党も内閣法制局もこれをとってはいない。だからこそ、彼らは自衛隊は実力組織であり、戦力ではないと強弁してきたわけだ。

また、第66条2項に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と規定されていることを持ち出し、「文民」と書かれているということは「文民ではない人」つまり「軍人」がいるということを憲法は事前に想定しているため、軍隊を持つことを憲法は否定していないとする説もある。

9条2項で戦力は明確に否定されているにもかかわらず、関係のない条文を裏から援用することによって9条を骨抜きにするこのような立場もアクロバティックな詭弁の一種で、説得力を全く持たない。

さらに「13条根拠説」なる珍種もある。憲法13条が「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定めていることを引っ張ってきて、国民の生命、自由、幸福追求権を保障する目的のための自衛隊は合憲と主張する立場だ。

これもアクロバティックな詭弁の一種で、ここまでくると「詭弁論大会」の様相を呈してくる。他の条文の恣意的な裏援用によるこのような解釈改憲が正当化されるなら、憲法はいくらでも骨抜きにできてしまう。憲法の自殺行為だ。

そもそも護憲派はいったい何を守りたいのか

そもそも、護憲派はいったい何を守りたいのだろうか。9条の条文なのか、9条の精神なのか。9条の精神を守りたいなら、私の立場と同じく精神を守りつつ条文を改正するという方針をとればいい。9条の条文を守ることに自己のアイデンティティを同化させているとすれば、それは単なるナルシシズムであり、政治音痴との誹りを受けても仕方ないだろう。「国破れて9条あり」という悲喜劇は笑えない。

すでに自衛隊を保有するというのは国民的なコンセンサスとなっている。自衛隊を保有し続けるか、廃止するかという点はもはや議論にすらならない。そして自衛隊と日米同盟によって日本の安全は保障されているのも疑いようのない事実なので、戦力としての自衛隊を憲法に位置づけ、不毛な憲法解釈論争に終止符を打つべきだ。

護憲派は欺瞞的な態度をとり続ける限りうさんくささがどんどん露呈してしまうため、まともな立憲主義者でありたいと望むのであれば、少なくとも自らが選好する「専守防衛・個別的自衛権の範囲であれば戦力としての軍隊を保有する」とする改憲案を正々堂々と提起すべきだろう。

9条の謝罪と反省機能

ただし、9条の改正にあたって配慮しておかなければならない点があることも見逃せない。9条には戦前に日本が侵略したアジアの国々に対する謝罪と「もう二度としません」という反省機能がある。9条を改正することで、それらの国々を含む他国から日本がかつての侵略国家に戻るのではないかという疑念を抱かせてしまうおそれがある。

私は日本が侵略国家に戻る可能性はないと考えているが、現に「前科」があるため、侵略された側から見れば日本が再び恐ろしい存在になると警戒されたとしても仕方ない。

しかし、憲法で否定しておきながらその外で実際には戦力を持つという現状はさらに恐ろしいものと認識されうる。世界の中でも強大な部類に属する自衛隊を持ちながら、それは戦力ではないと強弁し、憲法外の存在として放置し続ける国家のほうがよほど危なく見えるだろう。

問題は、この2つのうちどっちがましかだ。9条を改正し、戦力としての軍隊を憲法に位置づけたほうがはるかにましだと私は考える。したがって、妥当な態度として、9条を改正すると同時にかつての被侵略国に対して次の点を説いて回る必要がある。

  • ・憲法全体が平和主義を基調とするものであり、前文でもそれは謳われているため、9条を改正したからといって、平和を遵守する精神を否定するわけではない。
  • ・現実政治上、自衛のためには戦力が必要であるため9条を改正し自衛隊を憲法に位置づけるが、自衛を超えて戦力を乱用することはない。
  • ・かつての侵略に対する謝罪と反省は、(十分ではないかもしれないが)戦後80年間日本が行ってきたとおり国際平和に積極的に関与することでこれからも示し続ける。

これらを説き続けると同時に、それに説得力を持たせるに行動で表現するしかない。実際に戦後の80年間はそう行動してきたという実績もあり、中国、韓国を除くアジア諸国からの日本への信頼は厚いものがある。

以上が憲法9条をとりまく現状だ。次の稿では、もう少し具体的に私の憲法改正について見ていくこととする。

プロフィール
歩く歴史家
歩く歴史家
1980年代生まれ。海外在住。読書家、旅行家。歴史家を自認。
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