G-5YSV44CS49 「集団自決の自己成就」―少子化の一因を考える―|歩く歴史家 BLOG
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「集団自決の自己成就」―少子化の一因を考える―

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成田悠輔の高齢者集団自決発言

やや遅ればせながらではあるが、イェール大学アシスタント・プロフェッサーの成田悠輔氏がメディアで言ったとされる「高齢者は集団自決すれば良い」という発言について考えてみたい。この発言に対しては、批判や理解、賛同などの反応が示されているようであるが、私の意図はそれを繰り返すことにはない。外から「高齢者差別だ、人権の蹂躙だ、世代間対立をいたずらに煽る発言はけしからん」と批判すること容易であるが、批判する方・される方の双方にとって不毛だろう。

卵を内側から割る

むしろ私がやってみたいのは、成田氏とその賛同者の主張に立つとどういうことになるのかを思考実験をすることだ。私はこれを「卵を内側から割る」ことだと考えている。ある主張を外部から批判したところで双方は考えを変えることは決してなく、両者の主張はますます分断を深めるだけだろう。それに対し、相手の立場に立ちその内容が意味する帰結を吟味することにより、不毛な罵り合いを回避でき議論が前に進む。以下では、成田氏の発言内容を取り上げながらこのことを具体的に見ていきたい。

成田氏は2050年に自決しなければならない

成田氏がメディアで行ったとされる冒頭の主張は、私には成田氏の自決宣言に聞こえる。それはどういう意味か。

日本社会ではまだ若い世代に属する成田氏も、年齢を重ねいずれは高齢者になる。そのときには過去に自分が行った主張内容が自分にも跳ね返ってくることになる。そこで自らの過去の発言と言行一致させるため、自決しなければならなくなる。1985年生まれの成田氏にとりそのときがやってくるのは、同氏が高齢者(65歳)になる2050年である。同氏の発言に賛同した人も、同じく自決しなければ言行不一致の誹りを受けることになる。

2050年には高齢化が解消しているから、その必要はもうなくなっているのではないか?いや、そんなことはない。こちらを参照いただきたいが、2050年は日本の高齢化率がピークに差し掛かる直前であり、2023年現在以上に下の世代に負担がかかる時期である。下の世代による「高齢者の集団自決圧力」はより強くなり、差し迫ったものになる。

これは「集団自決の自己成就」とも呼べる事態だ。皮肉にも、これにより成田氏とその賛同者が意図しなかった方法で高齢化社会の問題は解決に近づくこととなる。賛同者が一定数いたとすると、その分だけ将来の高齢者数が集団自決により減る。高齢者が老齢年金を1円も受け取らずに自決するのが現役世代にとってのベストシナリオで、年金の賦課方式を前提とする限り、高齢自決者数が増えれば増えるほど年金支給額は減り、現役世代の負担は軽くなる。医療費も75歳以上人口が減れば大幅に減る。このように、「成田悠輔氏的な人」の増加により、他殺を伴わずに年金・医療などの高齢化社会の問題を解決する方向に近づくという構造になる。 さて、成田氏とその賛同者たちは、65歳になったときに自決するだろうか。(本当にするとすれば、たくさん子どもを生んでから自決するのが将来の日本社会にとってなお良いシナリオ)。

高齢者への不寛容=少子化の一因

私がこのように書いているのは、成田氏の発言とそれへの批判がどうというよりも、ずっと深い問題と結びついているためだ(私は時事的なネタにあまり関心がない)。すなわち、高齢者を蔑ろにする社会風潮は少子化という現象と表裏一体になっている。

人は誰もがいずれは高齢者となり、そのときにどのように扱われるかという将来予測を持ちながら子どもを持つか否か/何人持つかを(意識的・無意識的に)決定している。遠い将来蔑ろにされるかもしれない子ども(=高齢者予備軍)を持ちたいという親は多くないだろう。 目下大量に存在する高齢者に押しつぶされそうになっている若い世代に対し、「高齢者に寛容であれ」という言葉は響かないだろう。まだ若い世代に属する私も成田氏とその賛同者の心情は理解できる。しかし、自分も早晩、高齢者になるということを忘れてはいけない。

高齢化問題に対する特効薬はない。しかし、長期的に見れば時間とともに解決されるだろうというのが私の見通しである(こちらを参照)。

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1980年代生まれ。海外在住。読書家、旅行家。歴史家を自認。
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